第一話 『海より来たる禍』 2. 迎撃要塞
環境保全対策機関メガルは、街の中心から十キロメートル以上も離れた沿岸に位置していた。半島の先端から海を監視するように。
ガイアー財団と政府の共同出資で成り立つこの研究所は、表向きは海洋開発の平和的利用という趣だった。
だが山凌市をはじめとする国民の大半は知らない。
それが別名、『迎撃要塞メガル』と呼ばれていることを。
「カウンター・ゼロまで二時間を切りました。国防省はすでに動き出した模様。我々へは静観せよとの通達がありました」
オペレーターの報告に、司令室の最後尾に腰を下ろした最高責任者が重々しく頷き、すっくと立ち上がる。
その瞬間、煩雑な司令室全体が水を打ったように静まり返った。
そして、火刈聖宜は静かにそれを宣言した。
「オペレーション・アスモデウス展開。メック・トルーパー出撃準備。エネミー・スイーパーにはメガルの防護を優先させろ」
「了解」
「それから」一呼吸置く。「三竜王のオビディエンサー達を招集しろ」
「凪野博士の許可を得なくてもよろしいのですか?」
「かまわん」火刈が眉間に皺を寄せた。「奴らは、三竜王の力なくしては撃退不可能だ」
「どうして連絡くれなかったの?」
雅に問われ、光輔が口ごもる。
責めているわけではない。むしろ子供を見守る母親のように、雅は光輔を見つめ続けた。
口もとに笑みをたたえ優しく覗き込むと、ふっと笑った。
「言いたくないんだったら仕方ないね」
「……ごめん」
「別に謝らなくてもいいよ。ちょっと淋しかったけどね。あたしもだけど、お兄ちゃんの方がもっとかな」
歩き出す雅。背中でまとめた髪が風に揺れた。
その様子を光輔は静かに眺めていた。
坂の途中で雅が立ち止まる。街をとおして海がよく見えた。潮風になぶられ踊る前髪を気持ちよさそうにかき上げる。
雅も光輔達と同じ学校の制服を着用していた。光輔より二つ年上の三年生。ちなみに霧崎礼也は二年生だった。
くるりと振り返り、光輔の顔をまじまじと眺める雅。
礼也に殴られた頬が膨らんでいた。
「だいぶ腫れてきたね。痛いでしょ?」
「ああ、らいしょうぶ」
「言えてないって」おもしろそうに笑った。
「ひでえな、笑わなくてもいいじゃんか」
「ごめん、ごめん」目じりの涙を指でぬぐう。「でもすごいね、光ちゃん。礼也君、ボクシングやってて、プロの人にも勝っちゃうくらいなのに。何かやってるの?」
「……サッカー」
「関係ないよね? ね? それって」笑う。また涙が滲み出した。
光輔もふっと笑う。懐かしい気持ちが心に広がり始めていた。
「なんだか変だよね。久しぶりに会ったのに、あたし達どうでもいい話ばかりしてる」
「……」
「でもそれでいいんだよね。どうでもよくない話なんて、ろくなことじゃないもの」遠くを見つめるように海を見下ろした。「平和だから、それがどれだけ素敵なことかなんて気づかないんだよ、きっと」
光輔へ振り返った。
「ごめんね、さっきからあたし一人でしゃべってる」
「……雅、あのさ」
「わかってるよ」
「……」
ふいに雅の表情がかげる。
「光ちゃん、あたし達とはいられないんでしょ。わかるんだ、光ちゃんの気持ち。あたしも役立たずだから」
「雅……」
「光ちゃんがメガルから出て行った後でね、あたしも用無し認定されちゃったの。だから正直複雑なんだ。今もまだ財団からの援助受けてるのって。お兄ちゃんは気にするなって言ってくれてるけど。断ってお兄ちゃんへの負担増やすのもなんだし、高校くらいは出ておけってうるさいしね。別に光ちゃんが役立たずだってわけじゃないんだけど」
光輔には雅の気持ちが痛いほどわかった。雅はずっと一人ぼっちだったのだ。淋しかったのだ。
「あのさ、雅……」
光輔が雅に何かを告げようとした時だった。
突然大地を揺るがすほどの大地震が起きたのは。
「きゃっ!」
「うあっ!」
立つこともままならず、ガードレールの支柱へ抱きつく雅。
それをかばうように光輔が覆い被さった。
雅は目と口を固く結び、恐怖に耐えていた。
「大丈夫、すぐに収まるから……」
地震は約十秒間続いた。だが光輔達にとっては何時間にも匹敵するほど長く感じられた。
おそるおそる雅が目を開ける。
まだ光輔が覆い被さったままだった。
「光ちゃん」
光輔も瞼を開く。雅と目が合い、弾かれるように起き上がった。
「ごめんっ」
「すごい地震だったね」雅が立ち上がる。嬉しそうに笑いながら光輔を見つめた。「ありがと。光ちゃん」
「いや、別に……」
けたたましいサイレンの音に光輔の声がかき消される。
津波の警戒警報が発令され、消防関連の車両が市中を駆け回っていた。
途端に街がざわめき始める。
水を注ぎ込まれた巣穴から蟻達が慌てて飛び出すように、人の群れが入り乱れていた。
その様子を瞬きもせずに見下ろす二人。
「津波だって。ここまでくるのかな」
「おかしいよ」光輔に振り返らずに雅が呟く。「手際がよすぎる」
「え……」
「まるで最初から地震がくるのがわかってたみたい……」
「あれ」光輔が海の方角を指さす。海岸沿いの県道に自衛隊の車両が集結し始めていた。「なんで津波がくるってのに、あんなところに自衛隊が。災害に備えてかな」
「災害に備えて戦車が来るなんて変だよ。それも何十台も。あたしにはよくわからないけど、光ちゃんなら見えない?」
「何が」
「あの人達が武器を持ってるの」
「……」
着信に気づき、雅が携帯電話を取り出す。
陵太郎からだった。
「うん。うん。違う、光ちゃんも一緒。うん。わかった。すぐに学校に行く。大丈夫だよ。うん。お兄ちゃんも気をつけて」通話を終え、光輔へ向き直った。「光ちゃん、すぐに学校に行こう。あそこなら安全だから」
「学校って、今から? そこまで行かなくても大丈夫だろ。津波って言ったって……」
光輔が言葉を失う。雅の表情が先までとはまるで違っていたからだった。
「違うよ。もっと怖いものがやって来る」神妙な様子で海を眺め続ける。「海から……」
津波が迫りつつあった。
何の変哲もない波しぶきは街道に乗り上げると、決して何かを奪い去ることなくその場にとどまった。
やがて太陽の光をともないながら、キラキラと輝く透明な人の形がのっそりと立ち上がった。