第二話 『風に折れない花』 5. 託された希望
信じがたい光景だった。
海からやって来ると思われていたインプが、山の中から現れ出たのである。
光輔と桔平に狙いをつけたように。
体長約二メートル。暗いため黒か茶色か判別しづらい本体の頭部には、先の個体とは違い赤い球体が揺らめいていた。黒ずくめの全身は、まるで人の影が起き上がってきたものかと錯覚するほどの容貌で、駐車場の薄灯かりの下、赤い一つ目だけが爛々と光を放っていた。
目測で数は二十体から三十体、或いはそれ以上。
くっ、と歯がみする桔平。
「乗れ!」
「はい」
間近に迫りつつあったインプ達を置き去りにし、桔平がトレーラーを急発進させる。
二人のかたわらをいくつもの砂の弾丸がかすめ飛んでいった。
焦ったように時刻を確認し、桔平が悪態をつく。
「くそっ、どうなってんだ。予定よりずいぶんはえぇじゃねえか! 地震もねえのに津波はおかしいだろ。焦って速報流してんじゃねえだろうな、オッサン! ああっ!」
「……」
車体に無数の衝撃を感知し、何度もハンドルをとられそうになる。特殊コーティングを施した外装がなければとっくにスクラップになっているはずだった。
海竜王をつなぎ止めていたワイヤーが断裂し、巨大な人がたが荷台から放り出された。海竜王は激しく地面に叩きつけられ、仰向けの状態で駐車場の片隅に放置されることとなった。
「!」眼前に踊り出た二つの人影を確認し、桔平が眉間に力を込める。一瞬で人外のものだと判別した。「しっかりつかまってろ」
瞬きもせずに桔平を眺め、光輔が頷いた。
桔平が躊躇なくアクセルを踏み込む。
すさまじい衝撃をともない、トレーラーに弾き飛ばされる黒い人影。それらはインパクトの瞬間、大量の砂となってフロントグラスに覆い被さってきた。
「くそ、見えねえだろ! いい加減にしとけって……」
「柊さん、前!」
「んあ!」
ワイパーをフル活動させると、徐々に露となる前方視界に突如としてコンクリートの斜面が飛び込んできた。
咄嗟に急制動を試みる桔平。しかし砂にまみれた車輪はそれを受け止め切れず、ロックと解除を繰り返しながら横滑りを始めたのだ。
「くあっ!」
「ちょっと!」
ハンドルをせわしく操作し危機を回避しようとする。が、コントロールを失った車体はくの字に折れ曲がり、懸架部分だけを壁面に激突させて動きを止めた。ジャックナイフ現象をおこし、さらに前輪が段差に乗り上げたため、車体は完全に身動きがとれなくなっていた。それでも最悪の状況に陥らずにすんだのは、桔平の人並みはずれた操縦技術によるものだった。
「あちちち……」ハンドルにつっぷしていた桔平がしかめツラを光輔に向ける。「大丈夫か、坊主」
「何とか……」後頭部を押さえながら光輔が苦笑いしてみせた。「直前の記憶がかなり飛んでますけど……」
「そいつは都合がいい。嫌なことは忘れちまうに限る」
「はは……」
ふっと笑う桔平。それから後部の収納スペースからサブマシンガンを取り出し、光輔へ手渡した。
「おまえさん、これ持って逃げろ。このレバーこっちに倒して引き金引きゃ、勝手に弾が出る。調子にのって撃ちすぎるなよ」
「柊さん……」
「ここをまっすぐ行けば出口だ。とにかく死にもの狂いで走れ。俺ができるだけ時間をかせぐ」ちらと外に目をやる。じりじりと無数のインプが近づきつつあった。「いよいよとなったら、そいつで自分の身を守れ」
「柊さんは」
「俺にはこいつがある」懐のホルスターから愛用の拳銃を抜いてみせる。「タマも腐るほどあるしな。あとは適当なところで逃げるさ」
「でも……」
「心配するな。俺よりもおまえの安全の方があやしいのは確定だ」ふいに申し訳なさそうな顔になった。「すまなかったな。危険な目にあわせちまって」
取っ手に手をかけ、動きを止める桔平。感慨深げに左腕の時計を眺めると、それを手首からはずし光輔に手渡した。
「悪いが、これ、持っててくれないか。一品モノなんだ」
「……。高価な物なんですか」
「見てのとおり、どこでも売ってる安物だ。俺にとっちゃお宝だがな」
「誰かの形見とかですか」
「……まあ、そんなところだ」何ごとかを思い返すように目を細める。真顔で光輔に向き直った。「さあ、行け!」
勢いよくドアを開け、桔平が走り始める。その行く先にはインプの群れが待ちかまえていた。
飛びかかってきた一体の赤いコア目がけて、銃弾を三発撃ち込む。
弾頭に仕込まれた高性能の炸薬によってインプの体が四散した。
大量の砂が桔平に降りかかる。
視界の片隅に光輔の走り去る姿を確認し、桔平がにやりと笑った。
「さあ、とことんやろうじゃねえか、バケモノども……」
何かに取り憑かれたような表情。
それは絶望を払拭するために己を奮い立たせているふうでもあった。
素早い身のこなしで砂の弾幕をかいくぐり、両手でホールドした拳銃で確実にインプを仕留めていく。かつて裏自衛隊特殊部隊で、並ぶ者なきつわものと畏れられた戦士の姿がそこにはあった。
複列弾倉の九ミリ炸裂弾十五発を撃ち終える前に、躊躇なくマガジンチェンジを行い、続けざまに攻撃を仕掛ける。トリプル・タップを基本に、さらに一撃、また一撃を加え、桔平は次々と敵を蹴散らしていった。
サブマシンガンと同じ特殊実包を実装しているとはいえ、拳銃一挺で人外の敵を駆逐するさまは、さながら修羅のようだった。
それでも弾の数には限界がある。
退路どころか、しだいに桔平は山側へと押し込まれ始めていた。
九体目のインプを倒し、パウチから最後の予備弾倉を取り出し、銃に叩き込む。
振り向きざまに五発連射。
同時に放たれた砂の矢が桔平の右肩を貫いた。
トイレの壁に背中からもたれかかり、苦悶の表情を浮かべながら銃を左手に持ち替える桔平。
出血がひどく、意識が遠のき始めていた。
眼前のインプを弾き飛ばすと、砕け散った砂の向こうに赤く光る目が何十も見てとれた。
残りの弾はあと数発。
桔平が肩で息をし出す。
じりじりとインプが迫りつつあった。
精も根もつき果て、がっくりとうなだれる桔平を取り囲むように。
薄暗い常夜灯が照らし出す人類のテリトリーの中へ、それらは遠慮なく踏み込もうとしていた。
正面の一匹が鞭のような腕を突き刺そうと振りかぶった。
その刹那。
それを待ち受けていたかのように桔平が顔を上げる。
両眼の光はいまだ消えてはいなかった。
「クソが、てめえらなんかに屈服してたまるか」あえぐように吐き捨てた。「たとえケツの毛一本になってもな!」
ガン、ガン、ガン、ガン!……
後退したままの状態でロックされるスライド。
弾切れだった。
それでも桔平は銃を下ろそうとはしなかった。目標を補足したまま、前だけを睨み続ける。
そこに眼前の敵以外の何かを見据えるように。
一斉に飛びかかるインプの群れ。
桔平は瞬きもせずにその状況に抗い続けていた。
ふと、一人の少女の顔が脳裏をよぎる。
それは眩いばかりの笑顔だった。
桔平が少しだけ目を細める。
その時だった。
桔平を切り裂こうと距離を詰めた数体のインプが、砂となって散らばったのである。
ブシャッ!
すさまじい破砕音に再び活目する桔平。
眼前に何モノかが立ちはだかっていた。
桔平の体をおおいつくすような、黒く巨大な影。
サソリのように毒々しく、ぬめりと光を放つ全長六メートルの漆黒の巨人は、鋭くとがった顎と一対の触覚のような角を持ち、そびえ立つ両肩と切れ上がった冷血なまなざしで魔獣達を威嚇していた。
海竜王だった。
「おまえ……」
たった今無粋な使い魔を切り裂いた、銀色に輝く長爪を真横に振り抜いた姿は、背中を預けた戦友を守ろうとする意志のあらわれのようだった。
無気味な光を放つ黄橙色の両眼が振り返る。
桔平が無事であるのを確認したのか、海竜王は再びインプの群れと向き直った。
手首の隆起部に爪を収め、両手を広げたまま突き出す。すると手のひらからもうもうと霧が立ち込め、すべてを白くかき消していった。
それ以上桔平の目には何も映らなかった。
慌てふためくように逃げ惑うインプの気配と、短い間隔で聞こえ続ける破砕音だけが耳を刺激する。
ただ、うっすらと浮かび上がる海竜王のシルエットをかろうじて認識していた。
「そうか、陵太郎……」せばまる視界、薄れゆく意識の中、桔平が心の内で呟いた。『これがおまえが託した希望なんだな……』
気がつくと目の前に光輔の顔があった。
「柊さん、しっかりしてください。柊さん!」
「……」桔平が正気を取り戻す。心配そうに光輔が覗き込んでいた。
「今救急車を呼びましたから。もう少し我慢して……」
突然光輔の胸倉に手をかける桔平。ケガ人とは思えないほどの力で光輔の体をたぐり寄せた。
「いいか、これは俺の手柄だ。余計なこと言うんじゃねえぞ。言ったらぶっ殺す!」
何かに取り憑かれたような表情で睨みつけ、光輔の体を放り出した。
「二度と俺の前に顔を出すな。その時は今度こそ、ぐっ……」傷にさわりうめく。最後の気力で声を絞り出した。「ボコボコにしてやる……」
その真意に気づき目を細める光輔。なごり惜しげに桔平を見つめた。
「わかってますよ。ありがとうございます。りょうちゃんのために……」
「うるせえ!」
光輔が去って行く。
メック・トルーパー部隊が桔平のもとへと集結しつつあった。
遠くにサイレンの音を聞きながら、桔平がふっと笑った。
愚かな三文芝居を嘲笑するように。