第十話 『決戦!』 9. 激突
蒼穹を切り裂きながらアスモデウスの頭上を飛び続ける空竜王。執拗につきまとう全包囲攻撃の前に、夕季はなす術がなかった。
眼下では竜の口の中へ膝から割り込もうと奮闘する海竜王の姿が映る。
自身を傷つけることのないアスモデウスの怒涛の攻撃が、海竜王を駆逐すべく覆い被さろうとしていた。
「光輔っ!」
一旦射程圏外まで飛び上がり、夕季が神経を研ぎ澄ませる。雑念を振り払うように、ビシッ、ビシッと縦軸を中心とするロールを重ね、集中力を高め続けた。鷹の目と化した視覚でフィールドの隅から隅までを網羅し、鮮明に映し出す。攻撃の一つ一つを目で追い、とらえ、常人では到底処理し切れぬほどの膨大な情報量を竜王のサポートを得てすべて脳漿へ刻みつけた。
引き抜かれるような急激な降下に移るや、死地に飛び込み、一撃、二撃とやり過ごす。横滑りとバレルロールを複雑に組み合わせ、カミソリ一枚分のすき間を縫うがごとく、空竜王は間隙をくぐり抜けていった。
もしその動きを目で追うことができたのなら、誰もが瞬間移動を思い浮かべたに違いない。時おりかすめる飛沫だけがかすかに表層をなめていったが、矢継ぎ早に押し寄せる波状攻撃を見切り、紙一重でかわし続けた。
目まぐるしく視野中を駆けめぐる超視覚が、無限とさえ思えるパターンの中に不確定な一つの法則を導き出す。
数十手先、空竜王と海竜王を結ぶ直線に、ほんの刹那、何一つ妨げるもののないルートが浮かび上がったのである。
その塵のようなチャンスを夕季は見逃さなかった。
緩やかに流れる時空の中で、囁くようなカウントダウンが始まる。
……
三……
二……
一!
白銀の輝きを放ち、影すら追いつかぬほどのスピードで空竜王が降下していく。翼を焦がし、身を削りながらも、一直線に竜の鼻っ面に降り立ち、取りついた。片膝をついたその真下には、竜の口腔を押し広げんとする海竜王の姿があった。
激しくのたうち回る竜から振り落とされぬよう、足もとへ両腕のブレードをアンカーよろしく深く突き立てる。間髪入れず円錐を描くように大きく翼を広げ、全身シールドと化した空竜王が上方から海竜王を覆い隠した。
「く!」
歯を食いしばり、ひたすら夕季は未曾有の集中砲火を受け止め続けた。幾重もの悪辣な攻撃をまともに浴び、しだいに傘状に展開した翼が赤黒く変色し始める。徐々に空竜王の外殻が解け始めていた。
『夕季!』
「光輔、早く」灼熱のコクピット内で唇を噛みしめ、夕季が呻くように声を押し出す。「長くはもたない」
『……。わかった!』
光輔がまなざしに力を込める。大気を引き裂く絶叫とともに、ミシミシと音を立て、竜の口が海竜王の身長分ほども開いていった。
「ち!」
カラシニコフの速攻の前に桔平は防戦一方だった。
右腕をとられ、圧力に負け片膝をつく。
「さすがだな、かたがドラグノフそっくりだ」関節を決められ、苦悶の表情のままにやりと笑ってみせる。「切れは数段劣るがな」
「……。奴にシステマを教えたのは私だ」
「どおりで」
「……」
「彼に教わっていたら、あんたももちっとましになってただろうになって……」
「時間稼ぎはそれくらいにしろ」
「!」
体重をかけるカラシニコフに圧迫され、桔平の上半身が前方向へ沈み出す。そのまま肩を砕き折ろうと、カラシニコフが力を加えた。
が、その直後、元ロシア特殊部隊の英雄は信じがたい事実に遭遇することとなった。
勝利を過信することもなく、ただ作業の一環として眼前の敵へとどめを刺しにかかる。その時、予想を上回るタイミングで桔平の体が深く沈み込んだのだ。
左手を床へつき、右膝を支点に桔平が右半身を内側へねじ入れる。カラシニコフに押される勢いさえも利用し、不自然な体制から強引に右肩を引き抜いたのだった。
ゴリッという鈍い音とともに、桔平がひるがえる。
不測の事態にも、訓練を重ねたエリート兵の肉体は咄嗟に反応したものの、桔平のスピードはそれすらも凌駕するものだった。
左の掌底をカラシニコフの眉間へ突き入れる。ガードのため死角ができたと見るや、桔平は躊躇なく股間を蹴り上げた。
カラシニコフの表情にわずかな戸惑いが浮き上がる。だが苦痛をものともせずに前進した偉丈夫を待ち受けていたのは、凄まじい速さと勢いで到来する、悪夢のようなバック・ブローだった。
桔平の裏拳が精悍なカラシニコフの顔面にめり込む。鼻先から上唇へかけて陥没させた巨躯がぐらりと揺れた。
右腕をぶら下げた状態で、桔平がカラシニコフの膝を駆け上がる。左足のつま先を鳩尾へ抉り込ませ、それを踏み台にしてさらに跳び上がった。
桔平の放った右膝蹴りがカラシニコフの顎を砕き割る。
それからわずかなタイムラグの後、カラシニコフは血を吐きながら艶やかで硬質な床へと倒れ伏していった。
肩で息をしながら、動かなくなったカラシニコフを桔平が静かに見下ろす。
「システマか……。あれとイスラエルのだけは二度とごめんだ」
三たびゴールデン・キックが炸裂したのは、カラシニコフの取り出した拳銃を通路の反対側まで蹴り飛ばした時だった。
「ぐう……」
冷たい床に這いつくばったまま、カラシニコフが粉々に砕けた右手をわなわなと震わせる。
音もなく背後へと歩み寄り、桔平がカラシニコフの左腕を捻り上げた。
カラシニコフを拘束したまま、だらりと垂れ下がった右腕に目をやる。
「やっとこ傷も治ったってのに、夕季の野郎……」
壁際まで誘導し、コンクリートの柱へ己の右肩を力任せに打ち当てた。
「うがあっ!」ゴリッという耳障りな音がして、桔平が顔をしかめる。痺れの残る右手を何度も握ったり開いたりした。「これじゃ女子高生に脱臼させられたみてえじゃねえか、くそっ!」
八つ当たりのように桔平がカラシニコフの背中を力任せに蹴りつけた。
無防備状態で頭から崩れ落ち、再び床へと叩きつけられるカラシニコフ。ざっくり額が割れ、鮮血が流れ出した。苦痛にゆがむその表情からは相当なダメージが見てとれた。
「悪ぃな。今、いっぱいいっぱいでよ。手加減している余裕ねえんだ」カラシニコフの左肩をガッチリ決めたまま、まだ握力の戻らない右腕を恨めしそうに眺める。「いまいち力、入んねえし」
「いつからだ」
「んあ? そりゃ焼き肉屋で……」
「いつから私を疑っていた」
「……。疑ってたわけじゃねえ」
「では何故」
「誰が悪党なのかを最初から知っていただけだ……」
『礼也、早く逃げろっ!』
「光、輔……」光輔の絶叫を受け、ほうけたように呟き、礼也がわずかに表情を和らげる。「なんでてめえは毎度毎度そういうおいしい登場しやがる。天然か? うらやましいって……」
『礼也、早くしろ。夕季がもたない!』
「んだと!」
頭上に衝撃を感じ、顔を向ける。上顎の上で起きているそれを、礼也は容易に想像することができた。
「ざけんな、んなろーっ!」
片腕でメガトン級のプレスをしのぎながら、もう片方のナックル・ガードを口外へと射出する。海竜王の脇を抜けていったそれは、風を切りながら街道の落石防止用の壁面へと突き刺さり、内部の鉄筋と融合して、カメレオンが舌を引き戻すように陸竜王を外の世界へと引き抜いていった。側面にカエルのように取りつき、跳ね返る。遅れて訪れた反動でコンクリートの壁が崩壊した。その勢いを維持したまま再び竜の口もと目がけて跳びかかっていった。
時を同じくして、海竜王をくわえたままアスモデウスが空へと飛び上がる。
振り落とされ落下する空竜王を抱きかかえ、陸竜王が海面を蹴り上げた。
「夕季、大丈夫か!」
『……』
「夕季! おい、どうした、返事しやがれって!」
『……』
「おい、夕季! 夕季!」
『……。……暑い』
「……。へっ、ざまあみやがれ」
『誰のせいでこんな目にあったと……』
「知るかって。メロンパン食っとかねえからだ」
『……すごく頭が悪そう』
「んだあっ!」
礼也がほっと胸を撫で下ろす。すぐに表情を引き締め、アスモデウスへ振り返った。
「光輔ーっ!」
巨大で邪悪な影が地上へ降り立とうとしていた。