秋刀魚
子どもの頃、秋刀魚が嫌いでした。
臭くて、苦くて、骨が多くて、何がおいしいのか分かりませんでした。
けれど大人になると、不思議とその味をおいしいと思うようになります。
変わったのは秋刀魚なのか、それとも食べる自分なのか。
一尾の秋刀魚を囲む、父と息子の小さな食卓の物語です。
スーパーの鮮魚売り場で、山本隆はしばらく足を止めていた。
白い発泡スチロールの箱に、秋刀魚が五尾並んでいる。細い身体は砕いた氷の上でわずかに反り、蛍光灯の光を受けて青く光っていた。
一尾、七百八十円。
隆は値札を見てから、もう一度、秋刀魚を見た。
昔はもっと太かったように思う。皿から頭と尾がはみ出すほど長く、腹のあたりには脂がついていた。もっとも、子どもの頃の記憶なのだから、自分の手や食卓が小さかっただけなのかもしれない。
「今年も高いなあ」
隣に立った年配の男が、誰に言うでもなく呟いた。
隆は小さく頷きそうになり、やめた。
高いからといって、買えないわけではなかった。七百八十円を二尾。妻の美紀と、小学二年生の健太と三人で食べるなら、三尾必要になる。それでも、外で夕食を食べるよりは安い。
だが、秋刀魚三尾に二千円を超える金額を払うとなると、手が止まった。
隆は買い物籠の中を見た。豆腐、牛乳、卵、健太が朝に食べるヨーグルト。特売になっていた豚肉。どれも必要なものだった。
秋刀魚は、なくても困らない。
そう思いながらも、売り場を離れる気にはなれなかった。
九月の終わりだった。
昼間はまだ暑かったが、夕方になると風の中に少しだけ冷たさが混じるようになっていた。秋になったら秋刀魚を食べる。それは隆が大人になってから、いつの間にか覚えた習慣だった。
子どもの頃は、秋刀魚が嫌いだった。
焼いている途中から家じゅうに匂いが広がる。換気扇を回していても、玄関を開けたときには、今夜のおかずが分かってしまった。
皮は黒く焦げていて、箸を入れると銀色の下から白い身が現れる。小さな骨がいくつもあり、油断して噛めば口の中へ刺さった。腹のあたりは苦く、大根おろしには辛味があった。
何がおいしいのか、隆には分からなかった。
それなのに、秋になると何度も食卓へ出た。
『今日も秋刀魚?』
ランドセルを下ろしながらそう言うと、台所に立つ母は振り返りもせずに答えた。
『安かったの。今のうちに食べておかないと』
秋刀魚を食べておかなければならない理由も、隆には分からなかった。
食べたくないものなら、今のうちも何もない。ずっと食べなくていいと思っていた。
隆は氷の上の秋刀魚を見ながら、その頃の自分を思い出していた。
「二尾ください」
店員へ声をかけたあと、三尾と言い直そうか迷った。
結局、二尾のままにした。
家族三人なら、半分ずつにすればいい。健太は魚をあまり食べないから、一尾あっても残すかもしれない。
そう考えると、二尾でも多いような気がした。
秋刀魚の入った袋を買い物籠へ置くと、ほかの品物よりも大きな場所を取った。
帰宅すると、美紀は洗濯物を畳んでいた。
「秋刀魚、買ってきた」
隆が袋を持ち上げて見せると、美紀は手を止めた。
「いくらだった?」
「七百八十円」
「二尾で?」
「一尾」
美紀は何も言わなかった。ただ、畳みかけていた健太のシャツへ目を戻した。
「三尾はやめた。二尾を三人で分ければいいだろ」
「そうね」
「今年は高いらしい」
「毎年そう言ってる気がする」
美紀の声に責める響きはなかった。それでも隆は、買った理由をもう少し説明したくなった。
「せっかく秋だし」
「うん。焼く?」
「俺がやるよ」
魚を焼くのは隆の役目だった。
美紀が苦手だからではない。結婚した頃、隆が魚焼きグリルの使い方に詳しいふりをしたことが、そのまま習慣になっただけだった。
秋刀魚を水で軽く洗い、キッチンペーパーで拭く。塩は振らなくてもよかったが、少しだけ振ったほうが皮がうまく焼ける。
その程度のことを隆は知っていた。
子どもの頃には、秋刀魚を焼く前に塩を振ることも、内臓を取らずに焼くことも知らなかった。皿へ出されたものを、嫌々食べていただけだった。
大根を下ろす音が台所へ響いた。
「何してるの?」
健太が来て、隆の手元を覗き込んだ。
「大根おろし」
「今日、魚?」
「秋刀魚」
健太は露骨に嫌な顔をした。
「ええ」
「何だ、その言い方」
「骨ある?」
「魚なんだから、あるよ」
「じゃあ嫌だ」
健太は冷蔵庫を開け、麦茶を取り出した。
隆は大根を下ろす手を止めなかった。
「食べる前から嫌って言うな。一口食べてみろ」
「前も食べた」
「いつ?」
「給食」
「給食の秋刀魚とは違うだろ」
「同じ魚じゃん」
健太はコップへ麦茶を注ぎ、居間へ戻っていった。
隆はその背中を見送り、大根へ視線を戻した。
同じ魚ではある。
だが、給食の秋刀魚は焼いてから時間がたっている。家で焼いたものなら皮は香ばしく、身も温かい。大根おろしを添え、醤油を少し落とせば、子どもでも食べられるかもしれない。
隆自身、いつから秋刀魚を好きになったのかは覚えていなかった。
高校生の頃には、まだ苦手だった気がする。
大学へ入り、一人暮らしを始めてから、居酒屋で友人が頼んだ秋刀魚を少しもらった。脂があり、苦いところを酒で流し込むと、不思議とうまかった。
そのとき初めて好きになったのかもしれない。
あるいは、それより前から食べられるようになっていて、自分で注文したことによって好きだと思っただけなのかもしれない。
グリルへ秋刀魚を並べると、二尾でちょうどいっぱいになった。
火をつける。
しばらくすると、脂の落ちる音がした。煙と一緒に、魚の匂いが台所へ広がった。
昔は嫌だった匂いだった。
今は腹が減る匂いだった。
「臭い」
居間から健太の声がした。
「換気扇回してるだろ」
「それでも臭い」
「焼き魚はこういうものだ」
答えてから、隆はグリルの窓を覗いた。
皮の表面に小さな泡が浮かび、銀色が少しずつ焦げていく。
『臭い』
そう言ったことが、隆にもあった。
すると父は、新聞を読みながら答えた。
『魚なんだから当たり前だろ』
あの頃は、魚であることが、なぜ臭さを我慢する理由になるのか分からなかった。
食卓には、丸ごとの秋刀魚が四尾並んだ。
父、母、隆、二つ下の妹。一人に一尾ずつあった。
今なら、ぜいたくな食卓だったと思う。
けれど当時の隆は、目の前へ置かれた一尾を、途方もなく大きなものに感じていた。
どこから箸を入れればいいのか分からない。皮を剥がすと、身と一緒に取れてしまう。骨を避けたつもりでも、口の中へ入る。
食べるのが遅い隆を、父は向かい側から見ていた。
『箸を寝かせるな』
『骨に沿って入れれば取れる』
『まだ身が残ってるだろ』
隆は父に見られていると、余計に食べられなくなった。
父は秋刀魚をきれいに食べた。
皿の上には、頭と尾、それをつなぐ一本の骨だけが残った。
隆の皿には、皮も身も内臓も混ざり、魚だったものが崩れて残っていた。
父はそれを見るたび、少し顔をしかめた。
『食べ物を粗末にするな』
隆だって、粗末にしたかったわけではない。
食べられなかったのだ。
それを言っても、父には言い訳としか聞こえなかった。
焼き上がった秋刀魚を皿へ移すと、尾が少しはみ出した。
七百八十円の魚は、昔のものより細かった。それでも、焼きたての皮には脂が浮いていた。
隆は一尾をそのまま自分の皿へ置き、もう一尾を半分に切った。
頭側を美紀へ、尾側を健太へ分ける。
「何で僕のほう、小さいの?」
席へ着いた健太が言った。
「食べないって言っただろ」
「でも、最初から小さいのは嫌」
「じゃあ、父さんのと替えるか?」
隆が丸ごとの一尾を指すと、健太は首を振った。
「それは多い」
「だったら、これでいいだろ」
健太は返事をせず、秋刀魚を見た。
美紀がご飯と味噌汁を並べる。小皿には大根おろしがあり、すだちを二つに切ったものも添えられていた。
「すだち、あったのか」
「昨日、実家から届いた」
隆は秋刀魚へすだちを搾った。
香りが立ち、魚の匂いと混ざった。
「健太もかける?」
「いらない」
「大根おろしは?」
「いらない」
「醤油だけ?」
「何もいらない」
「何もつけないほうが魚の味がするぞ」
「それが嫌なんだけど」
健太は箸で皮をつついた。
隆は自分の秋刀魚の背へ箸を入れた。皮が破れ、白い身が現れる。箸先で持ち上げると、湯気が出た。
口へ入れる。
塩気は薄かったが、脂があった。
「うまい」
誰かへ聞かせるつもりはなかったが、声に出た。
美紀も小さく頷いた。
「今年の、細いわりにはおいしいね」
「そうだろ」
隆は少し嬉しくなった。
自分が買ってきたものを、妻がおいしいと言った。それだけのことだったが、七百八十円を払ったことが間違いではなかったように思えた。
「健太も食べてみろ」
健太は皮を箸でめくり、少しだけ身を取った。
口へ入れた途端、眉を寄せた。
「苦い」
「そこ、腹の近くだからだ。背中のほう食べろ」
「臭い」
「焼きたてなんだから、そんなに臭くない」
「しょっぱい」
「塩、ほとんど振ってないぞ」
「骨もある」
「ちゃんと見て食べれば取れる」
隆の声が、少しずつ強くなった。
健太は箸を置いた。
「やっぱり嫌い」
「まだ一口しか食べてないだろ」
「一口食べたじゃん」
「身の多いところを食べてない。そこなら苦くないから」
隆は健太の皿を指した。
「背中の上のほう。箸を横に入れてみろ」
「もういい」
「よくない。せっかく買ってきたんだから」
言ってから、隆は値段のことを口にしなかったことに少し安心した。
子どもへ金額を言っても仕方がない。七百八十円が高いかどうか、健太にはまだ分からない。
隆が子どもの頃、秋刀魚がいくらだったのか知らなかったように。
「無理に食べさせなくてもいいんじゃない?」
美紀が言った。
「無理にじゃない。食べ方が分からないだけだよ」
「嫌いだって言ってるでしょう」
「子どもの好き嫌いをそのままにしてたら、何も食べられなくなる」
「健太、ほかの魚は食べるよ」
「秋刀魚だって食べられるだろ。骨を取れば」
隆は箸を伸ばし、健太の秋刀魚から身を少し取った。
小骨がついていないことを確かめ、皿の端へ置く。
「これ、食べてみろ。苦くないから」
健太は動かなかった。
「一口だけでいいから」
「さっきも一口だけって言った」
「今度はちゃんと身のところだから」
「嫌だ」
「食べ物を粗末にするな」
その言葉が出たとき、隆は自分の声が、少し遠くから聞こえたように感じた。
健太が顔を上げた。
目の前にいるのは自分の息子だった。
けれど一瞬、隆は、秋刀魚を前に箸を止めている子どもの自分を見た。
向かい側には父がいた。
父は仕事から帰ったばかりで、白い肌着の首元に汗を残していた。新聞を脇へ置き、隆の皿を見ていた。
『好き嫌いばかりしてたら、大人になって困るぞ』
『嫌いなんだもん』
『大人になれば、このうまさが分かる』
隆は、分かりたくないと思った。
父の分かることが分かるようになるのは、父と同じ人間になるようで嫌だった。
大人になんかなりたくない、とまで思ったわけではない。ただ、大人というものが、苦いものも臭いものも我慢して食べ、食べられない子どもを叱る人間なのだとしたら、あまり良いものには見えなかった。
「大人になれば――」
隆はそこで言葉を止めた。
美紀がこちらを見た。
健太は箸を置いたまま、隆の次の言葉を待っていた。
隆は口を閉じた。
大人になれば分かる。
父が言ったとおり、自分は秋刀魚をおいしいと思うようになった。
ならば父は正しかったのだろうか。
嫌がる隆に食べさせようとしたから、今の自分がいるのだろうか。
けれど、隆が秋刀魚を好きになったのは、父に叱られたからではない。
少なくとも、そうは思いたくなかった。
友人と飲んだ酒や、一人暮らしの狭い部屋や、自分の金で選んだ料理。そのどれかが味を変えたのかもしれない。
ただ年齢を重ね、舌が変わっただけかもしれない。
理由は分からなかった。
分からないことを、これから分かるのだと健太へ言うのは、少し違う気がした。
「父さん?」
健太が呼んだ。
「いや」
隆は自分の箸を置いた。
「骨があるんだな」
「だから言ったじゃん」
「そうだな」
健太の皿を手前へ寄せた。
秋刀魚の尾側には、まだほとんど身が残っていた。隆は箸先を骨に沿わせ、上の身を持ち上げた。
細い骨が一本ついている。
それを取り、皿の端へ置く。
次の身にも、小さな骨があった。
隆は一本ずつ取り除いた。
健太は何も言わず、その手元を見ていた。
父は、隆の秋刀魚から骨を取ってくれたことがあっただろうか。
思い出せなかった。
母は何度か取ってくれた気がする。だが父は、食べ方を教えることはあっても、自分の箸で隆の皿へ触れることはなかった。
それを冷たいと思っていたのかどうかも、もう分からない。
父には父の考えがあったのだろう。
自分で骨を取れるようにすることが、息子のためだと思っていたのかもしれない。
隆は秋刀魚の身をほぐした。
崩れた白い身を皿の中央へ寄せ、骨を端へ並べる。
「これなら、たぶん骨はない」
「たぶん?」
「細いのが残ってるかもしれないから、ゆっくり食べろ」
健太は箸を持ち直した。
隆がほぐした身を少しだけつまむ。
口へ入れ、何度か噛んだ。
隆は息子の顔を見ないように、自分の秋刀魚へ目を落とした。
「どう?」
尋ねてから、聞かないほうがよかったかもしれないと思った。
健太はすぐには答えなかった。
水を一口飲んだ。
「さっきよりは苦くない」
「そうか」
「でも、まだ好きじゃない」
隆は箸で秋刀魚の身を取った。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
美紀が味噌汁を飲んでいた。
食卓の空気が戻ったというほど、何かが変わったわけではない。健太の皿にはまだ秋刀魚が残り、隆の中にも、食べてほしいという気持ちは残っていた。
高かったのだから、もう少し食べてほしい。
おいしいのだから、分かってほしい。
来年も同じように秋刀魚を買い、いつか三人でおいしいと言えたらいい。
そう思っていた。
けれど、そのどれも口にはしなかった。
健太はもう一口だけ食べた。
そのあとは白いご飯と味噌汁ばかりを口へ運んだ。
隆は健太の皿を見ないようにした。
見ればまた、残っている身を数えてしまいそうだった。
自分の秋刀魚を食べ進める。
背骨を外すと、下側の身が現れた。腹の近くには黒い内臓が残っている。
子どもの頃、最も嫌いだったところだった。
父はそこを好んで食べた。
『苦いところがうまいんだ』
そう言っていた。
隆には、それも大人の強がりに思えた。
本当は苦いのに、子どもには分からない味だと言って、我慢しているだけではないかと思っていた。
今の隆は、内臓の苦味を嫌いではなかった。
酒がなくても食べられる。
苦いあとに、脂の甘さが残る。その味を知っていることを、少し誇らしく思っていたこともあった。
健太が食べ終えた。
皿には、ほぐした身と黒い腹の部分が残っている。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
美紀が尋ねた。
「うん」
隆は何も言わなかった。
健太は食器を流しへ運ぼうとした。
「それ、置いといて」
隆が言うと、健太は皿を見た。
「残していいの?」
「もう食べられないんだろ」
「うん」
「じゃあ、いい」
健太は少しだけ隆を見た。
礼を言うでもなく、皿を食卓へ戻した。それから居間へ行き、テレビをつけた。
子ども向けの番組の明るい音が聞こえた。
美紀は食べ終えた皿を重ねながら、何も言わなかった。
隆も説明しなかった。
健太の皿を自分の前へ引き寄せる。
白い身が少し残っている。皮も半分ほど剥がされていた。
隆は骨がないことを確かめながら、それを食べた。
冷め始めていたが、まだ脂は残っていた。
最後に腹の部分が残った。
黒く、少し崩れている。
箸で持ち上げ、口へ入れた。
苦かった。
いつもの秋刀魚よりも苦い気がした。
冷めていたからかもしれない。
息子の食べ残しだったからかもしれない。
あるいは、同じ味だったのかもしれなかった。
隆は水を飲まず、そのままゆっくり噛んだ。
向かい側では、美紀が骨をまとめていた。
「高かったね」
美紀が言った。
「うん」
「でも、おいしかった」
「うん」
それだけ答えた。
食卓には、二尾分の頭と骨が残っていた。
一尾はきれいな形をしていた。もう一尾は途中で折れ、小さな骨が皿の端にいくつも並んでいる。
隆はそれらを新聞紙へ包んだ。
魚の匂いが手へついた。
石鹸で洗っても、すぐには落ちなかった。
居間では健太が笑っていた。
何が面白いのか、台所からは画面が見えない。
隆は濡れた手を布巾で拭き、少しだけその声を聞いていた。




