不仲恋愛
「不仲恋愛」
「伊那さんのこと嫌いなの?」
一谷さんは、たまたま一緒になった帰り道、僕に聞いてきた。
伊那さんは同じ課の一個上。一谷さんは二個下。
「そう見える?」
「伊那さん、欧瀧さんにすごい冷たい気がする」
「そう?」
***
伊那さんとはこの職場で知り合って二年になる。
そっけないなとはよく思っていた。そういう人が僕の周りには子供の頃から何人かいた。
仲が悪いというより、お互い無関心で、僕はそういう人ににこにこ対応するし、向こうは例に漏れず塩対応だから、周囲からすると、僕が割りを食っているように見えるかもしれない。
でも、僕は人間関係を損得で考えないし、「与えただけもらえる」なんておこがましいと思っていたから、気にならなかった。
僕はいつもにこにこしているし、誰に対してもそうだった。
***
別の島の人から、キツく詰められた日にしょんぼりしながら残業していた。「気にすんなよ」と隣の同僚に言われたけど、モヤモヤは残った。
帰ろう思って辺りを見渡すと、僕と伊那さんの二人だけだった。
「帰るの?」
「うん。伊那さんは?」
「そろそろ帰る。一緒に帰る? そういうことしたことないけど」
「それでもいいよ」
僕たちは戸締まりを確認して、二人で外に出た。
一流企業というのかはわからないけど、僕たちは結構稼いでいた。
軽く呑むかという話になって、僕らは駅を変えて、五反田の居酒屋に入った。
僕たちは特に話が盛り上がることもなく、目配せで意思疎通を図ることもなく、淡々と呑み、酔っ払っていった。
僕たちの呑み会は、実にスローテンポで、静かだった。
「何か?」
「いや。伊那さんは、彼氏とかいるの?」
「いない。どうして?」
「美人だから」
「そう? でも、男に縁はない。欧瀧くんは?」
「全然」
「そんなものよ。私はマッチングアプリもやらないし。それに、そもそも恋愛しない」
「どうして?」
「欧瀧くんは?」
「恋愛は、あってもいいけど」
「タバコ、吸ってもいい?」
僕はうなずいた。
伊那さんはタバコをカバンから取り出すと、手慣れ感を出さない手慣れ感で、火をつけた。
***
伊那さんは、それからしばらく僕を無視した。
職場の人は、僕と伊那さんの仲が「悪い」と思っていた。事実もそれに近い。
食事をしている時、こそこそと「お前、何やらかしたんだよ」と聞いてくる同僚も絶えない。
僕はでも、伊那さんとの間柄は、前と変わらないように思っていた。
***
ふと気づくと、僕と伊那さんはまた、職場で最後になっていた。
「伊那さん」
僕は声をかけた。
「何?」
「いや、ご飯でもどうかなって」
「強心臓」
「いや、そんなことないよ」
伊那さんは軽く音を立てて書類を整えると、こちらも見ずに帰り支度をした。
僕は背伸びをして見送ろうとした。目が合う。
「どうしたの? 行くよ」
「いいの? ごめん少し待って」
今日は五反田ではなくて、東京駅だった。中華を食べる。
例によって、伊那さんはあまり話さなかった。僕は気にならなかったけれど、伊那さんがどう思っているのかは、当然ながらわからなかった。
「職場で話しかけても答えてくれないのは?」
「そうしておいた方が得」
「得? どんな得があるの?」
「こうやって、誰の目も気にせずに一緒にご飯を食べることができる」
「何かやましいの?」
「いや、ただなんとなく」
「なるほどね。余計な心配をしたくないんだ」
「そう」
伊那さんは、タバコを吸うために、時折コンビニに立ち寄った。軽めの煙らしく、においは体の発する香りに紛れた。
メガネをかけていることもあった。プラスチックフレームの、長髪に似合うやつ。
「欧瀧くんは、タバコ吸わないの?」
「吸わないね」
「もしよかったら一本どう?」
「遠慮しておくよ」
「健康志向なの?」
「美味しくないって言ったら、失礼かもしれないし。むせ返るのもかっこ悪いしね」
じめっとした夏の終わりの雨上がり。伊那さんの香りは、ある一定の濃度で発散していた。
「試してみる?」
「え?」
「ここ」
ほのかに開いたすぼまる唇。僕はその唇に重ねた。
乾燥させたハーブの香りがした。
「もう一度」
僕は伊那さんの華奢な背中に触れた。ほろほろと崩れ落ちてくる外壁の塗装のように、はかなかった。笑いもしない伊那さんに、僕は好感を覚えた。
***
「欧瀧くんのいいところは、淡白なところだと思う」
「不名誉だね」
「こじ開けようとしない」
「こじ開けられたい?」
「いいところだって言ったでしょ?」
伊那さんは、僕のことをどう思っているのかわからなかったけど、とりあえず確かに僕は淡白だった。
体が欲しいと思わなかった。それは、伊那さんとのやりとりそれ自体が、ある種の情事だと感じていたからかもしれない。それは単純に体を重ねるよりずっと、汗ばんで、柔らかく、背徳的で、プラトニックだった。
伊那さんが唇を貸したのも「具体的に」雰囲気というものを共有しようと思ったからだろう。一緒にタバコを吸って欲しかったのかもしれない。
真っ暗な夜の天井が、東京の街を沈める。
チョウチンアンコウみたいな夜の底の光が、僕らを引きつけた。
銀座でご飯を食べたのは、伊那さんの誕生日だった。
「欧瀧くんのいいところは、いつも気後れしていないところ」
「外食くらいなんともないよ」
「それが嫌味じゃない」
「嫌味な人いるよね」
せっかくの誕生日なのに、僕と居ていいのだろうかと、聞こうと思ったけど、自己弁護が過ぎるか。
僕は伊那さんにマグカップを贈った。日本橋の誠品書店の雑貨売り場で買ったものだ。
実に久しぶりに伊那さんの笑顔が見れた。
「気持ちが重くない。めちゃいいと思う」
「ペン立てにしてもいいよ」
「ありがとう」
伊那さんは、しばらく考え事をしていた。
「私たち、友達?」
「僕に、友達はいないよ。そう呼ぶ人はいても」
「それは、どうして?」
「誰もが人だよ」
「自分も? 自分だけは、特別なんじゃないの?」
「そうだね。でも、少なくとも僕は、伊那さんのことを、人と思っている。友達ではないかな」
「それって、ラベリングの究極の回避方法だよね。でも、それなのに不誠実な感じがする」
伊那さんはからからと笑った。
「私のために、そう言ってくれているの?」
「あるいはそうかもしれないけど、単に僕のあやふやな価値観が、僕たちの関係をそれと意識せず支えているのかもね」
「本当に好きな人がいる」
「他人に気持ちを注ぎたくないだけだよ。つまり、傷つきたくない」
「優しいと、勘違いされる」
「そんなことは例外事項だけど」
「じゃあ、人に優しくする理由は?」
「その方が楽だから」
「嫌われる方が、楽だけど」
「それは、伊那さんの自己が揺るがないからだよ。僕の自我は殻をかぶっていない」
怖いの? 伊那さんは僕に聞いた。
何が? 僕は問い返す。
「私と溶け合うのがいや?」
「たぶん、伊那さんの真奥に僕の言葉は届かない。それに」
「御託はいい。私のこと好き?」
僕は口を閉ざした。
「そういうことね。単に親切なだけ」
僕はまた、返事をしなかった。
「齟齬を補うために、変わった思考を自らに課している」
「そうかもしれない」
「何も特別なことはないんだって、自分に言い聞かせて」
「そうだね」
「私も、たくさんの具体例の中の一つ」
「そうかもしれない」
「ラベリングしないってことは、区別していないってこと」
「変かな?」
伊那さんは首を振った。
「いいと思う。優しくて自然なコミュニケーションの理由がわかった。ある意味で卓越している」
「伊那さんは?」
「私?」
「僕のことを好きなの?」
「キスを誘うくらいには」
「そりゃそうか」
「それくらい、わかってて欲しい」
そっけない言葉に、好意が滲んでいると、僕は思っていいのだろうか。でもそれは「友達」として?
「国語力なさそうな顔している」
看破されている。でも、これだけはわかる。僕は好意を表明していないし、それをしなければ、伊那さんとの関係に進展はない。
「言質を取られないの、本当に上手だね」
「どんどん評価が下がっていく」
伊那さんは、くくくと笑った。
***
会社ではいつも、そっけないやり取りに終始する。僕と伊那さんの仲を知っている人は、わずかばかりもいない。
だからと言って、背徳に燃え盛るようなこともない。僕たちは淡々とご飯を食べ、ごくたまに唇に乗せた煙を共有する遊びで愉しんだ。
独占欲なんかないというのは、現時点で目立ったライバルがいないからだし、僕が伊那さんにとって特別だと、思うことができているからだった。
何かの歯車が狂えば、僕は嫉妬を覚えるか、諦念に沈むかするだろう。
恋愛しているわけではないと、言い訳をして。
不仲を装うために限られた、やり取りの時間は、特別だった。
レストランの照明の下にいる伊那さんは、いつも綺麗で輝いていた。優しさとか柔和さは特にないけれど、表情の冷厳さは、逆に心地よかった。なあなあにならず、ゆっくりとした関係の醸成には好都合だった。
互いの個性を尊重するし、相手に何かを要求しなかった。そしてそれこそが、僕が伊那さんを好きだという証拠の一つになっていた。
「どこかデートでも行く?」
「どこにする?」
チャットを送ると、伊那さんから、すぐに返事があった。
「何かしたいことある?」
「さあ。池袋のジュンク堂でも行く?」
「そういう休日なのね」
「本読まない?」
「いや、読むよ」
「そうでなくては」
「小説ばかりだけど」
「好きな作家は?」
「米澤穂信」
「若いねー」
チャットだと少し砕けてくれる。たぶん鍵つきのSNSアカウントは持っているはず。知りたいとは思わないけど、興味はある。
「伊那さんは?」
「三島由紀夫」
***
ジュンク堂に早めに着いて、地下の漫画の新刊をサーチしながら、伊那さんを待った。
スーツとは違う私服で、伊那さんはやってきた。予想に違わぬ綺麗な服で、ヒラヒラしているものは何もなく、一部ハイブランドも取り入れて、かなり極まっていた。振り向く人も多いだろう。
「意外。ジーパンとTシャツで間に合わせる人かと思っていた。ユナイテッド・アローズ?」
「よくわかるね」
「まあね」
三島由紀夫が好きだというから、てっきり小説をたくさん読むのかと思ったら、評論の方が好きらしい。
哲学の本を手に取って、その話をする。かなり新鮮だった。ふと思い立って、出身大学を聞いた。
「一橋。欧瀧くんは?」
一橋と聞いて、動揺した。確かにうちの会社は一流どころが多いが、一橋はその中でも上位だ。
「東北大」
「私の勝ちね」
「上に東大と京大しかないよ?」
「京大には負けてない」
「そうかもしれない」
「私は法学部だった」
「僕は、教育学部」
「教員免許持ってるの?」
僕はうなずいた。
「何の先生?」
「国語」
「専門は?」
「近世小説。『雨月物語』とか」
「いいね。先生になればよかったのに」
「そしたら、伊那さんに会えなかった」
伊那さんは少し目を見開くと、微かに嬉しそうな表情で俯き、僕の胸を軽く押した。
僕たちは文系で、共有しているテクストがあり、考え方に違いはあるにせよ、話題は尽きなかった。
池袋の本屋で二時間ばかり彷徨いた後、僕たちは喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。
酒を呑まないやり取りは、もしかしたら初めてだったかもしれない。でも、この初めてのデートは、話に花が咲いたという点では成功だったが、僕は、上手くいったとは思なかった。
スーツの時とは違って幾分か物腰が柔らかくなった伊那さんは、却って魅力を減じていた。
僕は、そのカジュアルな笑顔に、どうしても違和感を感じざるを得なかった。もちろん、伊那さんが伊那さんであることは変わらないにしても。
硬質でよるべのない壁の塗装が剥げて、中の柔らかい土塊が顔を出していた。僕はそれが嫌だった。
徐々に明るくなっていく伊那さんの表情に、合わせて自分の気持ちをチューンしていくのが、だんだん難しくなってきた。
それが僕の本心から来るものなのか、僕には全くわからなかった。
***
池袋駅のメトロポリタン口で、僕たちは違う電車に乗るからと、しばらく立ち話していた。
僕は終始話を合わせていて、でもそれに伊那さんは気づいていなかった。
明るい側面があることを知ったのは、反面的に幻滅したとも言えた。
夜に別れて、チャットを交わして、また会社に出た時に、伊那さんが変わっていたらどうしようと、僕は恐ろしかった。
でも伊那さんは、会社では変わらず僕にそっけなくしてくれたし、呑んでも前と同じように、酔うことにだけ愉しみを見出していた。
寄せては返す波のように、月に満ち欠けがあるように、様相は反転し、そしてまた反転した。
部署異動の時期が来て、僕は転勤することになった。海外上海支社に移る。
その話は何度かしようとしたのだけれど、残業も二人だけになれずに呑みに行けず、チャットで、唐突に告げることになった。
涙のマークをつけて、その後で「そっか」と書いていた。その時にはもう、僕にとって伊那さんとの時間は、なくてはならないものになっていた。気づいたら、伊那さんが欲しくなっていた。
***
別れの時にそう思うのは、よくある話なのかもしれない。それまで当たり前だったものの尊さに、改めて気づかされたのかもしれない。
引っ越しの準備やら、業務の引き継ぎやらで、伊那さんとはやりとりがなかった。
欲しさは狂おしいほどに血流を巡り、興奮して寝つけない。まるでドラッグを使用しているかのように、渇きを覚えた。
僕は、それが愛ではないとわかっていた。
仕事の話をする時の、そっけない、興味がないというような返事に、覆い被さるように口上を述べたかった。
好きだと。誰かのものになるくらいならいっそ、僕のものになってくれないかと。
そうして沸騰する感情に、理性で水をかける。すると全てがなんの意味もない、事実だけの世界になる。
わかったことといえば、僕も、伊那さんも、事実だけの世界に生きているわけではないということだ。その濃淡は、二人の間で違うにしてもである。
本当は話したい。
本当は抱き合いたい。
でも本当にそう思っているかを確認する方法は、言葉以外どこにも存在しない。たとえ、伊那さんが何かを目で訴えかけていたとしても、それを僕が解釈することはない。
上海に行く便で、伊那さんに連絡した。しばらくしたらまた、どこかで呑みに行きましょう、と。
「しばらくって、一体いつ? どこかでって、どこで?」
僕は答えられなかった。
「それは社交辞令?」
「いや」
「私はいつまで欧瀧くんを待っていればいいの?」
悔しかった。こんな出来事でもないと、僕たちは踏み込んだことも聞けない。「僕なんか待たなくてもいいよ」と、言ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。「あなたのことはどうでもいいんです」。そう思っていたはずだったのに。
「赴任が終わったら、必ず会いに行く」
「そんなんじゃ何にも変わらない」
「何も変わらなくても、事実は一つだから」
「その事実、私に確認しなくても大丈夫?」
こんな話したくなかった。こんな話をする伊那さんではないはずだった。気持ちが冷めていく。わかったのは、自分が一番冷たい人間だということ。嫌になる。肯定的な言葉一つ紡ぐことできないなんて。
タイミングが悪いとか、運命じゃなかったとか、そういう考えが、流星の如く脳内に落ちてきた。一部はスパークして煌めいた。流星が、最も受け入れやすい選択は、選択しないことだと告げていた。
いくつかの逡巡の後で僕は、理由を探すことをやめた。
「ふた月に一度、必ず東京に帰る。夕食を食べるだけの時間になるかもしれないけど、会いたい。もし許されるなら、」
伊那さんはその電話を取った。
「もし許されるなら?」
「付き合ってください」
いいよ。軽く帰ってきた。それが、とても伊那さんらしくて、最初の場所に戻ってきた心地がした。
「ご飯どうですか?」
「いいよ」
みたいな。