第一章 ひとりめ 8
澤田芳江は一階の居間のソファに腰かけて独りでテレビを見ていた。画面からは人気の芸人達の賑やかな笑い声が溢れているが、画面を見詰める芳子の目は虚ろで、表情には何の色も浮かんではいない。
ふと壁の時計を見た。午後十時を過ぎている。芳子はゆっくりと立ち上がると、のろのろとキッチンに歩いた。そろそろ主人が帰ってくる時間だ。
独り息子の孝は、大学入学後は飲み会だ、旅行だと何かと理由をつけて帰宅は夫以上に遅い。今日も帰りは遅くなると先ほど連絡があったばかりだ。
「まったくもう、孝ったら遊んでばかりで。少しお父さんにも厳しく言ってもらわないと――」
芳子は独りごちりながら、鍋に火を点けた。
総一郎は、このところ連日の接待で夕食は外で済ませてくることが多い。しかしながら飲んだ後の味噌汁だけは芳子の作ったものを帰宅後、一杯飲むのが習慣になっていた。
玄関のチャイムが軽やかな音を立てた。芳子は玄関に向かい扉を開く。
見事な銀髪を後ろに流した総一郎の顔が現われた。芳子を柔らかい眼差しで見詰める笑顔はいつもと変わらない、だが、ひどく疲れているように見える。額の皺がいつになく深い陰影を総一郎の顔に落としている。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま――」
差し出された鞄を受け取りながら芳子は総一郎の顔を見詰めた。靴を脱いで上がる総一郎の後ろに従いながら居間に戻ると、声を掛けた。
「あなた、お身体の具合が悪いんじゃないの。顔色が良くないわ」
「ちょっと、飲み過ぎたようだな。ここのところ色々あるからね」
ネクタイを緩めながら総一郎はソファに腰を下ろした。
「味噌汁、お食べになる?」
「ああ、食べる」
総一郎の応えを待って芳子はキッチンに向かった。鍋のふたを開けると湯気が立ち上り味噌汁の匂いがキッチンに立ちこめる。
「あなた、さっき孝から電話があってね。あの子、今日もまた遅くなるって言うのよ。もう孝もいい大人なんだから、というのは分かるんだけどまだ学生じゃない――」
芳子はいったん、言葉を区切った。味噌汁をお盆に載せて、居間に向かう。テーブルに味噌汁を置きながら総一郎に目を向けた
「今度、あなたからも言ってくれないかしら――」
総一郎は何か考え事をしているようだ。視線を合わせず「誰に言うんだい?」と呟くように応えた。
「孝にですよ、他に誰がいるんですか」
芳子の応えに、総一郎は、何も言わず笑顔を見せた。「お願いしますね」と念を押してキッチンに戻る。
芳子はキッチンで洗い物をしながら、考えていた。昨日、孝の部屋で見つけた“あの”気味の悪い本のことを話すべきだろうか――。
いや、できない、きっと総一郎は、私が未だに孝の部屋に入っていることをとがめるだろう。そして優しいけれど、どこか憐みを含んだような瞳で私を見つめながら諭すはずだ――
(おまえも早く子離れをしなさい)
芳子は、やはり自分の中だけに留めておこう、と考えていた。