第一章 ひとりめ 5
澤田芳江は、夫の総一郎の病院で起きた殺人事件を報じるテレビニュースを見た後、家の掃除を始めた。殺人事件であるから、大変な事件であることには間違いがないのだが、芳江には、何か遠いところで起こっているような感覚があった。
総一郎は病院での出来事を家庭で一切口にすることがなく、芳江の実家の父も医者であったが、父も家庭においては総一郎と全く同じであった。
世の男というものはそういうものなのだろう、と思っていたし、働きに出たことのない芳江は、仕事のことには一切関わるつもりがなかった。
澤田家は総合病院を経営する家庭に相応しい広大な屋敷を病院の裏手に構えており、部屋数も二十を超えていた。
夫はお手伝いでも雇えと言ってくれるのだが、毎日使う部屋以外は頻繁に掃除の必要はないし、例え掃除のためでも自分達が普段生活する場所を赤の他人に見せる人の気が知れない、と芳江は考えていた。
一階のリビングや台所の掃除を終え、二階の夫婦の寝室を最後に終了する、というのがいつもの流れであった。だがこの日は、息子の孝の部屋の前を通りかかったとき“何故か”ふと足が止まった。
医学部の三年生になる独り息子の孝は、小学生の頃から取り組んでいる剣道の影響か、礼儀正しく、声を荒げたりすることもない穏やかな性格の男性に育った。
芳江は思春期を迎える中学の頃から、孝の部屋を無断で掃除することは控えるようにしていた。精通を迎えた男なら自慰も行うであろうし、当然親に見られたくはない雑誌なども隠してあるだろう――と、いうのは息子や夫への建前で、その実、芳江は息子にばれることのないよう、慎重に机の中を開いて日記を読み、ごみ箱の中をあさって自慰の有無を確認し、ベット下に隠された猥褻な雑誌などを確認することが週に何回かの習慣になっていた。
病院が夫の持ち場であるならば、家庭は私のモノ、隅から隅まで把握しておかなければならない、例外なく――息子の部屋の中は勿論、息子が何を考え、どんな女性と付き合い、どんな話をしているのか、把握しておくのは当然のこと――。
さすがに大学に入学するようになってからは、ベット下の雑誌類はいつの間にか処分されていたが、芳江の習慣は変わることがなかった。
孝の部屋の前で足が止まったのも、決して“何故か”ではなく、“いつもの”習慣の一つであった。
芳江はそっと孝の部屋のドアを開いた。窓のカーテンを開く。南側に面した孝の部屋は日当たりがよく気持ちが良い。
最初に窓際に置かれた机に向かい、引き出しを開ける。日記をペラペラとめくり内容を確認する。特に目新しいことは書かれていない。配置の変わらないように慎重に元に戻して引き出しを閉めた。
次に芳江は本棚に向かい、一通り並んだ本に左側から右側に順番に目を向けた。医学部の学生らしく、医学書が大半を占めているが、高校生の頃から収集している漫画の単行本や、剣道の技術本も何冊が混ざっている。
芳江は本の並びを見れば、最近孝がどの本を手にしたかが分かるほどであった。孝がまだ高校二年生の頃、並びの変わったあたりに女子高生からのラブレターが挟まっていたことがあった。
メールが当たり前の今日、敢えてラブレターを寄こす女子高生の生真面目さに、芳江は好感を持ったものであったが、今頃、あの女子高生と孝はどうなっているのだろう。日記を見る限りでは何の表記もなかったから、そのまま何事もなかったのだろうか――。
などと考えながら本棚を眺めていて、あるところで目が留まった。他の本に比べて、その二冊分だけが棚から前にせり出している。二冊とも分厚い辞書で初めてみるモノでもなかったが、あきらかに本の収まり方が異なっていた。
(奥に何かある――)
芳江は、慎重に二冊の本を引き出して床に置き、辞書二冊分の厚みだけ空いた空間に目を遣った。
奥には、一冊の本が棚に背表紙をつける形で収まっていた。芳江は手にとって表紙を見た。真っ黒の丁装に白抜き文字で「猟奇殺人事件研究」とある。
芳江は本の中身を開いた瞬間、驚いて本を床に落としてしまった。いきなり目に飛び込んできたのは無残に頭部を割られ、脳漿が飛び散った死体の拡大写真であった。
芳江は湧きあがる悲鳴を、口に手を当てて必死に抑えた。がくがくと足が震え、膝が笑い、へなへなとその場に座り込んでしまった。
(孝が何故、こんな恐ろしい本を読んでいるの? 医学の勉強の本かしら? そう、きっとそうだわ、解剖か何かの参考にあんな本を読んでいるんだ――)
芳江は気力を振り絞り立ち上がると、恐る恐る本を手に取った。もう中を見る気は起きない。部屋から逃げ出したくなる気持ちを必死で抑えながら、慎重に本棚を元通りに戻し、部屋を出た。
芳江はふらつく足元に耐えながら一階の居間に戻って、ソファに横になった。頭痛がひどい。
居間で付けっ放しになっていたテレビは、司会者が変わっても、澤田総合病院の殺人事件の犯人像に対しての特集を行っている。如何に残酷な殺人事件であるにせよ、よほど今日は他にニュースがないのだろう。
心理学者とテロップの表示されている痩せた男がもっともらしくコメントしている。
「この稀に見る猟奇的殺人事件は――」
芳江は目を剥いた。図らずも先ほど孝の部屋で見た言葉と同じ言葉が今、テレビの中から発せられた。
この家庭は私のモノ――私の知らないことなどこの家庭の中にあってはならない、ましてや――