第一章 ひとりめ 4
警備員室は職員入り口のところにあった。二十四時間有人で院内への人の出入りをチェックするとともに、奥の小部屋では各階の様子が防犯カメラで捉えられ、専任の警備員が交代制で監視を行っている。
防犯カメラで捉えられた映像は原則一週間保存され、後は自動的に消去される仕組みになっていた。
警備室の中には既に上野毛刑事課長や須崎係長を始めとした刑事課の面々が揃っていた。どうやら黒田は然るべき段取りを踏んでいたようだ。前川は黒田にいらぬ意見をしたことを恥じた。
警備員を真ん中に座らせ、上野毛刑事課長と須崎係長が両脇を挟み、その後ろに板井、黒田、前川、事務局長の近藤が立った。
「午前二時から三時、整形外科病棟のナースセンター近辺の映像を見せてくれ」
黒田が煙草に火を付けながら警備員に指示した。指定した時間は犯行が行われたと推定される時刻だ。
画像は目撃者の小倉がナースセンターを出るところから始まった。ナースセンターの入り口の灯りを右手に、暗い廊下を見下ろす映像である。部屋の中の様子は分からない。右下に表示された数字が午前二時過ぎであることを示している。画像は非常に鮮明であり、薄明かりの中でも、歩いて画面下に消えた小倉の表情がはっきりとわかった。
「部屋の中の映像はないのですか」前川が問うた。
「ありません。廊下部分の映像のみです」警備員が応えると、近藤が付け足す。
「カメラの目的はあくまでも患者の徘徊の発見と防犯上の理由ですので――」
画像は向かって右側にナースセンターから洩れる灯りと、左側の暗い廊下の対比を写したまま静止したように動きがなくなった。前川は僅かな変化も逃すまいと注視していたが、十分も同じ映像が続くと、さすがに集中力が落ちてきた。
「早送りしてください」五十を過ぎたばかりで、早くも老眼になった眼をしょぼつかせながら上野毛が指示した。
画面を横切る細い線が、一定の間隔で上から下に流れ落ちる。カメラは暗い廊下の光景を映し出している。変化は見られない。
「止めろ」黒田が指示する。前川は画像を注視したが、変化が表れている様子はない。黒田は妙な勘の良さがある、今も何かを感じたのか。
やがて、画像の下方から黒い影が現れた。右下の時刻は午前二時二十一分を示している。
上野毛は椅子を倒して立ち上がり、顔を画面に寄せた。須崎が警備員を弾き飛ばして画面の正面に腰掛け、上野毛の顔の横に顔を並べる。
背後からカメラに捉えられた影は、ゆっくりと画面の下方から上方に移動していく。歩き方がやや変則だ。左足を引きずるような歩き方をしている。
「でかいな――」上野毛が呟く。
「――男ですね」板井が応える。影は上背があるというより横幅に大きい。肥満体とも言えるほどだ。
上下を黒っぽい衣服に包み、頭髪は――確認することができない。すっぽりとフードを被っている。右手に何か細長い棒のようなものを持っている。
黒い影はナースセンターの前まで移動すると、正面で立ち止まって横を向いた。フードが顔の半分を覆い横顔も確認できない。唯一口元だけを僅かに見ることができた。中の様子を覗っている。付き出た腹が大きく波打っている様子が鮮明に映っている。
影が右手に持った棒の一端を左手で握り、そのまま両手を左右に開くような動きを見せると、棒は二つに分かれた。左手には黒い棒が、右手には白く光る金属質の棒が握られている。
「鞘を抜いた、日本刀だ――」前川は咄嗟に呟いた。
影はナースセンターの前で微動だにしない。棒を持った両手をだらりと下げて立っている。中にいる山下に、顔を見られることを全く恐れていないように見える。
やがて影は黒い手袋をはめた手でドアノブを握った。ゆっくりとナースセンターの扉を開き、中に姿を消すと扉は閉じられた。
カメラは再び元の光景に戻った。右側のナースセンターから洩れる光が暗い廊下を照らしている。ただ、最初と異なるところは右の光の中で殺人が行われているという点だ。
前川の脳裏に凄惨な現場の光景が浮かび上がった。部屋の真中に溜まった血の海、首のない死体、そして――ざくろのように熟した切り口――。
あの光景を生みだした惨劇が、今まさに画面の中で行われている――前川は胸を押しつけられるような息苦しさを感じた。
扉がゆっくりと開いた。画面右側のナースセンターの中から黒い影が再び姿を現す。午前二時四十三分、犯行はわずか二十分ほどで実行されたことになる。
部屋を出たところで後ろ手にドアを閉める。相変わらずフードを目深に被っているため顔は見えない。しかしながら、右足を引きずる独特の歩き方で画面の下方に消える一瞬、カメラはフードの下から覗く口元だけを正面から捉えた。
何かを喋っている。ゆっくりとした動きとは正反対に、口元だけはせわしなく動いている。肌は驚くほど白く、唇は血を塗ったように紅い。
黒い影は呪祖でも唱えるように口元だけを動かし続けたまま、ゆっくりと画面下に消えた。犯行場所から一刻も早く逃れようという焦りは覗えない。むしろ事を為して満足げに引き上げているようにすら見える。前川は全身が粟立つような悪寒を感じた。
「なんだ、こいつは――?」
板井が唸り声を上げながら呟いた。上野毛が椅子に凭れ、煙草に火を点ける。
須崎は変わらず、画面上に目を止めていたが二度と黒い影が画面に現れることはなかった。ボタンを押して画面を停止させる。
前川は、板井の言葉に応えようと考えを巡らせた。しかし結局のところ、表現しようのない殺人鬼の姿に継ぐ言葉が見つからなかった。
警備室の中に暗く、重い沈黙がのしかかっていた。