第三章 殺人鬼の幻 10
澤田芳子の取り調べの様子を見終え、廊下を歩いていた上野毛は背後から声を掛けられて振り向いた。
「ちょっといいか」
声の主は捜査本部の中野指導官であった。剃刀で切ったような細い目の脇に皺を刻んで笑顔を見せている。上野毛は向きを変え、中野の後ろに従った。
中野と上野毛は、全員、出払ってがらんとした捜査本部の机を挟んで、パイプ椅子に腰かけた。
「悪いな上野毛、ちょっとお前の考えを聞かせて欲しくてな」
「なに、構わんが――。珍しいな、お前が他人に相談なんて」
中野と上野毛は警察学校の同期である。元々上昇志向の強かった中野は昇進試験を受け続けて本部の指導官の立場にまで上り詰めたが、現場志向の強い上野毛は課長とはいえ、所轄であり、未だ警部補であった。両名の立場には警察機構内においては歴然とした格差が生じていた。
「捜査本部の中でも、お前くらいしか正直に考えを聞ける奴がいねえからな」
「お偉くなると、いろいろ足を引っ張る奴も出て来るってことか」
「まあ、そういうことだ」
中野は上野毛の刑事としての能力に一目置いていた、いや正直なところ、自分よりも上だとすら考えている節もあった。
「芳子のことか?」上野毛は問うた。
「証物が出て喜んじまった自分が恥ずかしいよ。どうやら現実はこの上なく複雑だ」
「俺はよく分からないのだが、芳子が二重人格者であって孝が実行犯である場合、芳子をホシとして問うことができるのか?」
「その点は、過去の判例を見ても問題がない。医師の鑑定が必要になってくるが恐らく芳子の立件は可能だ。だが上野毛よ、お前本当に芳子がホシだと考えているのか?」
アルミの灰皿を手間に引きよせ、中野は煙草に火を点けた。
上野毛は顔をゆっくりと左右に振りながら、口辺に薄い笑顔を浮かべる。中野は上野毛の表情に頷くと、言葉を継いだ。
「俺もだ。首を一刀の元に刎ねる、胴体を複雑骨折が起きるほどものすごい力で切断する、こりゃあ、いくら二重人格者とは言え、女の筋肉量でできる芸当じゃねえ、いや男にしたって人間離れした怪力の持ち主じゃねえと無理な話だ」
「だが、証物は澤田の家から出てきた。芳子の別人格である孝の自供を裏付けている」
上野毛は中野の思考を辿るように応える。
「上野毛よ、お前の考えを聞かせろ」中野は煙を上向いてひと吐きすると、太い二の腕を机の上に乗せて身を乗り出した。
「言うのは構わんが、ひとつ条件を出させてくれんか」上野毛は口元に笑みを浮かべたが、目は真剣に中野を見ている。
「何だ、駆け引きかよ。よかろう、言ってみな」中野は、にやりと歯を見せた。
「以降、澤田病院関係者は我々、所轄に任せてほしい」
顔を寄せて迫る上野毛に、中野は頷いた。
「よかろう、ただし澤田総一郎と芳子夫妻は本部に任せてもらう。それでいいな」
「構わん、しかし芳子は当然として、旦那のほうも渡さないところを見ると、俺とお前の間の考えに、差はないと思うぜ」上野毛は中野の承諾を得たことで、青葉署の部下たちとの約束を果たした。これで大手を振って病院内を調査できる。
「さて上野毛、お前の考えは? 聞かせてくれ」
「俺も、今回の件は別として、前の二件に芳子は無関係だと思っている。勿論、孝もだ。理由もお前と同様、いくら別人格とは言え、所詮は女の筋肉量だ、実行可能なレベルを超えている」
中野は煙草をくわえたまま、腕を組んで聞いている。剃刀で切ったような細い目はさらに引き絞られている。
「しかし、芳子の別人格である孝は自分が犯人だと言っている。何故だ? 芳子が犯人では在りえないとするなら、元人格の芳子でなく別人格の孝だけを“自分が犯人だ”と思わせるようにし向けた者がいる、ということだ。そんなことが可能なのか? 可能であれば誰が? 俺は旦那の総一郎しかあり得ないと思っている、間違いなく澤田総一郎は何かを行い、何かを隠している」
上野毛は一気に語って息を継いだ。
「お前は、総一郎が何を隠していると思う?」煙草をくわえたまま中野が問うた。
「わからん、だが俺は澤田病院にその鍵があると考えている。勿論、その本丸は総一郎だが、そっちのほうはお前達、本部が手放してくれないからな。俺たち所轄は遠回りでも地道にやるさ」上野毛はわざと抜け穴のことを話さなかった。
「まもなく最初のヤマのDNA鑑定が上がってくる。芳子がホンボシかどうかは、そこで分かるはずだ」
中野は大きく煙を吐き出すと、灰皿にこすりつけながら「そしたら、又、お前の意見を聞かせてもらいたいもんだな」と歯を見せた。
上野毛は、抜け穴の件は長くは伏せておけそうにないな、と中野の笑顔を見ながら考えていた。