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無縁人間  作者: 片桐洋右
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第一章 ひとりめ 3

 若い巡査に案内された場所は一階の事務局であった。まだ早朝ということもあり、事務員たちは出勤していない。全員が着席すれば五十名以上になるであろう、病院の事務局としてはやはり大きい。

 前川は巡査に案内されるまま事務局の中を通って、一番奥のパーテーションで仕切られた会議用スペースの扉をノックした。

 中から返事があるのを待って、巡査が扉を押し開いた。男の声であった。

 会議室の中は、折り畳み式の長テーブルが正方形に配置され、周りをスチール製の椅子が囲んでいる。ブラインド式のカーテンは全て広げられ、窓一面に広がる桜の花の間から朝日が溢れている。

 入り口の一番近く、四角に配置された長テーブルの角を挟んで、中年の肥った男と、前川に背中を向ける形で若い看護師が座っている。

 中年の男が立ち上がり、前川に名刺を差し出した。でっぷりと肥った体に地味なねずみ色のスーツを合わせ、脂分の多い頭髪に小さな丸眼鏡を掛けている。《事務局長 近藤義一》とある。

「朝早くから、ご苦労様です。この度は本当に大変なことになってしまいまして――」

 近藤は額にハンカチを当てながら眉を八の字に下げ、困惑したような表情を見せた。

「青葉署の前川です。第一発見者の方はこちらですか?」

 前川は内ポケットから名刺を差し出しながら、看護師の背中に目を向けた。

 頷く近藤と立ち位置を入れ替わるように、前川は看護師の斜め前に回りこんだ。

 まだ若い女の看護師であった。泣き腫らした焦点の合わない目は真っ赤に充血し、放心したように表情が消えている。親しい者の死に接した者は皆、同じような反応をする。

 前川は女の顔を見ながら、スチール椅子に座った。

「失礼ですが、お名前をお聞かせいただけますか?」

 反応しない女の代わりに、口を開こうとする近藤を手で制した。今のような状態の場合、まず本人の口を開かせることが重要である。

 女は応えない。虚空をぼんやりと見詰めたまま視線が動かない。無理もない、殺人現場を見慣れているはずの自分ですら目を背けたくなるような凄惨な場面を目撃したのだ。ましてや、自身の同僚が被害者であるなぞ――。

 前川は同情の気持ちが心の中を支配しつつある状況を振り払って、一回り大きな声を上げた。

「すいません、青葉署の者です。あなたのお名前をお聞かせいただきたいのですが」

 女の視線が虚空からゆっくりと動き、前川の顔のところで止まった。

「聞こえますか? お名前は何とおっしゃいますか?」

「お、小倉――、美奈――です」

 力の無い、空気が漏れているような発音だったが、何とか聞き取ることができた。前川は斜め後ろに立つ近藤に顔を上げた。近藤は「間違いない」とばかりに頷く。

「小倉さん、ありがとうございます。辛いことをお聞きしますが、被害者が誰だかお分かりになりますね?」

「ゃ―した――せんぱぃ――です」

「すいません、もう一度」前川は耳を寄せた。

「や、山下――、沙織さん――です!!」感情が爆発したように大きく叫ぶと、両手で顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。これ以上、聞くことは無理だろう。

「ありがとうございます」前川は立ち上がり小倉の肩にそっと手を載せると、近藤を窓のほうに促して向かい合った。散った桜の花びらが窓ガラスに張り付いている。

「山下沙織さんというのは?」

「整形外科病棟の看護師です。小倉の先輩に当たりまして、昨夜は一緒に夜勤をしておりました」

 誰かが入って来た気配に目を向けた。開け放たれた入り口のところに黒っぽいスーツ姿の痩せた長身の男が立っていた。青葉署の主任刑事の黒田康司である。

 黒田は入り口のところに座る小倉に顔を近づけた後、ゆっくりと前川に近づいて来た。

 削ぎ落されたようにこけた頬、窪んだ眼窩、どす黒い顔色――、常に黒っぽい服装を好む上に、言いようのない負のイメージを全身に纏ったような黒田の印象に、前川はいつも“死神”を連想していた。

「前川、遅くなったな」黒田は唾液に光る細長い歯を見せてにやりと笑った。青葉署に異動してから三カ月の前川は、黒田の笑顔をこのとき初めて見た。全身から強い煙草の臭いが漂う。

 百九十センチ近い長身の黒田は、近藤を見下ろすように黙って顔を向けた。「誰だおまえは?」と顔に書いてある。

「黒田さん、こちら事務局長の近藤さんです。今、発見者と被害者の関係をお聞きしていたところでして」

 前川も百八十センチ近い長身であるが、黒田を見上げるように近藤を紹介した。

「ここはあちこちに防犯カメラが設置されているだろう。録画テープを見せてくれ」

 前川の言葉に反応することなく、黒田は近藤に問うた。

「は? ああ、はい、警備室にございます。こちらへどうぞ」

 黒田の独特の雰囲気に初対面の人間は大抵圧倒され、萎縮してしまう。近藤も例外ではなかった。

「黒田さん、お分かりだと思いますがその辺の動きは一応、課長の許可を――」

 黒田は前川をじろりと見下ろした。「若造が偉そうに意見するな」と眼が語っている。

 前川は、小倉が落ち着くまで休ませておくように若い巡査に指示をして、近藤と黒田の後に続いて会議室を出た。


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