第三章 殺人鬼の幻 9
「奥さん、何度も悪いね」風船のようにふくらんだ醜い顔を捻って、田端と名乗った刑事は私に笑顔のようなものを見せた。ああ気持ちが悪い。
田端の様子が一回目の面談のときと微妙に変わっているように感じた。何か裏側にある事実を隠して私を試しているような、小馬鹿にしたような感じ。私は不快であった。
私は、言われるままにパイプ椅子に腰かけた。正面に座った田端の肩越しに壁一面を覆う大きな鏡が見える。なるほどマジックミラーで私の様子を見ている者がいるのだろう。
「実は奥さんの自宅から、犯行の際に犯人が着用していたと思われる衣服が見つかってね。その件に関してまた色々と聞かせてもらいたいのですよ」
私は田端の言葉に動揺した。何ということだ、孝は証拠を処分していなかったのだ。いや、これは私の失敗だ、私が先回りして処分しておくべきだった。私は動揺を気取られないように俯いて表情を隠した。
「まあ、物的証拠が出てきたからねえ、奥さんの言うように二件の殺人事件も貴方の犯行の可能性が俄然、高まったわけなんだけれど――」
突然、田端が言葉を止めた。私は俯いた額の辺りに視線を感じ、そっと顔を上げた。切り込みを入れたような細い眼が私の眼の前に近づいてくる。
「私はねえ、どうしても二件のヤマが貴方の犯行だとは思えないんですよ」
蛞蝓のような色の悪い唇が動いた。私の背中に小さい虫が這いまわるような悪寒が走る。
「詳しくは言えないけれどねぇ、二件のヤマは貴方みたいな女性の力では実行不可能なんですよ。それくらいね、特殊な犯行方法なの」
私の心臓が高鳴っていく、田端に聞こえてしまうのではないかと言うほど大きな音を立てる。そうだ、私は孝がどうやって二人を手に掛けたのか全く分かっていない、ただ孝を守らなければと――、私が実際に犯行を犯して、後の二件も私がやりました、と自供すれば私の罪になるだろう、と――、私は自分の浅はかさを呪った。
私は、ただ黙って田端を見つめるしかなかった。田端も私に視線を当てている。
「これはねえ奥さん、男だよ、男の犯行。奥さんのところで男って言えば旦那さんの総一郎さんと、あと、誰がいたっけ?」
私は田端の言葉を聞いて確信した。警察は一連の犯行が孝によるものであることを把握している、孝の居所を私から聞き出すつもりなのだ! 私は口をつぐんだ。
母さん、もういいよ。僕が直接話そう、どうやらそのほうが良さそうだ。
「――孝だよ、澤田孝。澤田総合病院の跡取り息子だよ」
田端は目を剥いて私の顔を見詰めた。
「刑事さん、いろいろ言ってるけど、要は僕が犯人だって言いたいんでしょ。もう耐えられないんだよ、母があんたに厭味たらたら言われるのを見てるのは」
「君は誰だ? 孝君か?」
膨らんだ顔に脂汗を浮かせて、田端が声を絞り出す。視線は凍りついたように私に当てたままだ。
「ああ、ちっとも招待してくれないから僕のほうから来てやった」孝は人懐っこい丸顔に笑顔を浮かべている。私によく似ていると言われる笑顔だ。
「何故、我々が君を招待しなければいけないのだい?」田端は唇の端をねじった。どうやら笑顔を作っているつもりらしい。
「そんなこと決まってるじゃないか、だって俺が――」いけない、私は咄嗟に孝の言葉に被せた
「――だって母親が、殺人容疑で逮捕されれば、そりゃあ、もう、ねえ田端さん」
私は自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。孝が話す言葉を遮ることができれば何でもよかった。
「奥さん、悪いんだが、その、孝さんと話をしたいんだけれど」
田端は何故か、さらに目を剥いて私を見ている。もう、みっともないほどに脂汗を体中に浮かべて。
「母さん、もういいよ。日本の警察は世界一だ、もう分かっているさ」
孝は軽く、溜息のような息を吐いて呟いた。
「何を言っているの、孝! 何がもういいのよ! 貴方にはこれから先があるのに、こんなところにいてはいけない!」
私が突然、声を荒げたことに驚いたのだろう、田端は肩をびくんと震わせた。
「だけど母さん、罪は償わないと」孝は泣き笑いのような顔を見せ、田端に視線を向けた。
「刑事さん、僕がやったんです。母は僕の罪を被ろうとしているだけです、僕が“病院の殺人鬼”なんです」孝は淡々と告白した。
(ああ駄目だ、駄目だ、孝、あなたは何を言っているの? 孝、孝――!)
私は声にならない叫びを上げた。身体に力が入らない、私はパイプ椅子に崩れ落ちた。
田端はいつの間にか、立ち上がって私を見下ろしている。
「今の、あんたは誰だ。奥さんか? 孝君か?」
田端は訳のわからないことを口走っている。