第三章 殺人鬼の幻 7
澤田総合病院の院長、澤田総一郎が青葉署にやって来たのは、午前九時過ぎであった。
澤田は地元の名士であり、政治家などにも顔が広い。到着の際には川上一樹青葉署長自らが玄関口まで迎え、聴取も署長室で行う、という特別待遇であった。
署長室の快適なソファに着席を促し、上野毛刑事課長と須崎係長も向かいのソファに腰を下ろした。聴取は上野毛が行い、記録係は須崎が行うことになっていた。
「まあ、気を楽にしてお話し下さい」上野毛より二十歳以上も若いキャリア署長である川上は、調子のずれた台詞を口にして、澤田の横のソファに腰を下ろした。
上野毛は皮肉を込めた一瞥を川上に投げてから、澤田に視線を向けた。
「先ほどまで、奥さまが別室で容疑者として事情聴取を受けておられました。容疑は殺人未遂です。整形外科病棟の看護師長である後藤珠代さんに出刃包丁で切りつけて重傷を負わせました。幸いにして命に別条はないとのことですが、重大な犯罪行為であることは明白であります」
「大変、ご迷惑をおかけいたしまして誠に申し訳ございません」澤田は深々と頭を下げた。
「後藤さんに対する殺人未遂容疑は、目撃者も存在し、ほぼ現行犯状態で取り押さえられております。従って動かしようのない事実であると考えております。ただ、我々が重大な関心を払っております点は、奥さまご自身が、病院内で起こった過去二件の殺人事件に関しても自供をしている、という事実なのです」
上野毛は淡々と、まるで下手な役者の台詞のように抑揚なく話した。
「芳子が、そんなことを――」澤田は絶句した。
「何か心当たりがおありになりますか」上野毛は僅かに笑みを見せる。
澤田は何かを考えている。片手で顎から頬を何度もさすり、俯き加減の瞳は一か所に留まることなく揺れている。
「我々がどうしても分からない事がもう一つあります」
澤田の反応を試すように上野毛が続けた。澤田が顔を上げる。
「奥さまは犯行の動機として、息子の孝さんの名前を挙げておられます。孝さんというのは――?」
上野毛は言葉を区切り、澤田を覗きこむように顔を寄せた。
「孝の名前を挙げているというとは、どういう意味なのでしょう?」澤田は質問で返した。
「何でも、今回の後藤さんを含めた三名の女性が息子さんに、その、興味を持っていたといいますか、まあ可愛い息子さんをよその女に持って行かれることを防ぎたかった――と」
「そんな――そんな理由で芳子は」澤田は泣き笑いのような表情で顔を左右に振った。
「澤田さん――」上野毛は澤田の表情を一つも見逃すまいと、じっと視線を当てながら言葉を継いだ。
「奥さまはそのように仰っていますが、どうも動機としては薄い。取り調べを担当した刑事は、奥さまが息子さんを庇おうとしているのではないか、と報告してきました」
広げた脚に両肘を付けて、さらに顔を寄せる。
「つまり――息子さんが“病院の殺人鬼”なのではないか、と」
「君! 上野毛課長、口を慎みたまえ、無礼だぞ!」
ソファに埋まって遣り取りを聞いていた川上が、慌てて上半身を起こした。
「上野毛さん――」澤田は隣に座る川上を目で制した。
「既にお分かりのことと思いますが、澤田家に孝という長男はおりません」
須崎が記録を取る手を止めて顔を上げた。川上があからさまに驚きの表情を見せる。上野毛だけが澤田の発言に表情を変えることなく、視線を向けている。
澤田は眉根を寄せる一方で、口元には自嘲的な笑みをたたえて言葉を継いだ。
「実は、長男の孝は今から十一年前、ちょうど大学三年生のときですが、交通事故でこの世を去りました。初産が死産だった芳子は、二番目の子供である孝を溺愛しておりましたので、孝を失った悲しみのあまり心に病を抱えてしまいました。つまり、孝が死んだことを受け入れられず、まだ生きているものとして振舞い始めたのです」
澤田は頭を抱えて俯いた。肩が震えている。
「私も病院経営の忙しさにかまけて、きちんと芳子に向き合うことをしませんでした。芳子の気が済むならと、私も孝が生きているかのように振舞いました。しかし、芳子の症状は目に見えて悪化して――、ついには芳子の中に本当に孝が現われるようになってしまったのです」
「孝さんが現われる、とは?」上野毛は柔らかく問うた。
澤田は顔を上げて、背筋を伸ばした。顔からは表情が消えている。
「芳子の中に孝という独立した別の人格が生まれてしまったのです。解離性同一性障害、一般的には二重人格などと呼ばれています」
川上も須崎も言葉を失っている。上野毛だけが全てを知っていたかのように、冷静に澤田を見ている。
「なるほど。奥さまは存在しない息子さんを庇っているのではないか、と」
「そう思います」澤田も無表情で上野毛の視線を受け止めている。
「息子さんは、剣道で県大会上位入賞の経験がおありだとか」
「え、ええ。確か孝が高校生のときだったと」澤田はわずかに怪訝な表情を見せた。
「そのことは奥さまも御存じですね」
「ええ勿論、会場に二人で応援に行ったのを憶えています」
「そこで先生にお聞きしたいのです。人格が変わったときには元の人格に記憶は残らないものなのか、そして人格のみならず体力も大きく変わってしまうものなのか。つまり中年の女性が、人格が入れ替わっただけで男性並みの腕力を振るったり、竹刀など持ったこともない人が、剣の達人のように変わることが可能なのか」
「上野毛君、君はいったい何を言っているんだ」川上が馬鹿馬鹿しいとばかりに引きつった笑顔を見せた。上野毛は表情を変えない、真剣に澤田を見ている。
澤田は表情を緩めた。口元には薄笑いを浮かべている。
「上野毛さん、おっしゃりたいことはわかりますが――、まあ、いいでしょうお応えしましょう、まず――」澤田は人差し指を立てた。
「一般的には別人格の記憶は残らないと言われています。しかしながら芳子の場合は、驚くべきことに別人格の孝と会話をしています。これは従来の症例からは考えられないことです。会話ができるということは別人格である孝の言葉を記憶しているということですからね」
澤田は夫としての悲痛な表情から、いつの間にか医師の顔へと変化している。
「そういう意味では、芳子の場合は記憶に残っている可能性は高い、と言えます。又、体力や技能に元の人格にはない面が現われるのか、という点ですが、確かに世界中の報告を見ると、知るはずのない外国語を話したり、男性並みの力を振るったとの報告がありますが、これに関して私は多分に懐疑的です。まあ何とも言えない、と言うべきなのでしょうか」
「なるほど、有難うございます」
上野毛は満足げに頷いた。