第三章 殺人鬼の幻 6
“病院の殺人鬼”逮捕のニュースは、早朝のテレビの速報テロップから始まった。途端、全てのチャンネルは報道特別番組を編成、第一の事件からの経緯をおどろおどろしく紹介しつつ、犯人に関して虚実ないまぜの報道を始めた。
捜査本部設置後、毎日署長室で行われている定例記者会見も、押し寄せたマスコミの数を考慮して、いつもより大きな会議室で、署長と県警捜査一課長が対応することとなった。
「田端さん、ご苦労様です。こちらです」風船のような身体を揺らしながら走ってきた田端幸作に、前川は署の取調室の方向へ手を差し伸べた。
「おう、ご苦労、ご苦労」田端は笑顔を見せながら前川の手前で立ち止まった。見かけによらず息は乱れていない。
前川と並んで取調室に向かう。聞くところによれば田端は県警ナンバーワンの取り調べの名人だという。人は“本当に”見かけによらない、と前川は感じていた。
廊下の左側に並んだ扉の一つを開けて、田端を通した後に取調室に入った。正面の窓から薄曇りの空が見える。
取調室の真ん中には、スチール製の机が置かれ、その両側に折り畳み式パイプ椅子が一つづ置かれている。入り口から向かって左側に澤田芳子が座り、入って来た前川達に真っ直ぐに視線を向けている。澤田邸で見たときの怯えた色は微塵も感じられない。
田端は芳子と視線を合わせたまま、ゆっくりと椅子を引き、腰を下ろした。前川も入り口脇に設置された聴取の記録係用の椅子に腰を下ろす。
まず田端は芳子の姓名や住所の確認など形通りの手続きを、普段の早口からは考えられないほど、一語一語言葉を区切りながら慎重に行った。漢字の確認などもしつこいほどに行い、応える芳子の表情を覗っている。なるほど既に取り調べは始まっていると、前川は田端の様子を見ながら感じていた。
「さて――」ひととおりの手続きを終えて、田端は両手を机の上に重ねた。口元は柔らかく微笑んでいる。
「まず、貴方が全部やったそうだけれど、理由を聞かせてもらえますか」
田端は、丁寧な物腰で問うた。最近は被疑者の人権や取り調べの可視化など、警察の捜査を取り巻く環境は非常に厳しい、今回のようにマスコミからの注目が大きい事件にはより慎重な姿勢が求められるのだ。机を叩いて自供を迫る姿はもはやドラマの中でしかあり得ない。
「気に入らなかったからです」芳子は田端の視線を堂々と受け止めて応えた。
「ほう――」田端はわずかに目を引き絞った。暫しの沈黙。
「しかし、気に入らないからっていちいち殺していては貴方も大変でしょう。どういう所が気に入らなかったのですか」
「全てです」口元だけが動く。表情は能面のようだ。
「なるほど、じゃあ少し質問を変えましょう。貴方、被害者とはどんなところで面識があったのですか?」
「それは、あの看護師さんとは病院の中で何度もお会いしていますし――」
芳子の視線がわずかに泳いだ。田端はその変化を見逃さなかった。
「あの看護師さん、ですか。名前は分かりますか?」
田端の問いに、芳子は唇を引き絞った。何も応えない。田端は前川のほうにちらりと視線を遣ると、再び芳子に向き直った。
「それでは、他の二名の被害者の名前は? 知っていますよね?」
芳子はやはり応えない。前川は記録の手を止め、改めて芳子を見た。でっぷりと脂肪の付いた肥満体と言える体形、身長も年齢のわりに大柄だ、百六十センチ以上あるだろう、体重も百キロまではなくとも相当量ありそうだ。なるほどこのまま黒いフードを被れば、外見上は防犯カメラに映ったホシの姿に近い。
しかしながら、今回の件は別にして、前の二件は澤田芳子のような年齢の、しかも女性が実行し得るものなのだろうか。首を一刀のもとに跳ね飛ばし、胴体を広範囲にわたって複雑骨折がおきるほど“ものすごい力”で切断する。前川は視線を向けたまま、考えていた。
「おかしいですね。過去の被害者二名の名前はテレビでも頻繁に放送されています。犯人でなくても知っているはずなんですがねえ」
じゅうぶんに間を取って田端は言葉を継いだ。
「澤田さん、全て包み隠さずしゃべってもらわないと困りますよ。貴方は被害者達の全てが気に入らない、と言った。と、言うことは被害者と当然、面識があるはずでしょう。名前も知らない人間をあんな殺し方ができるなんて、そいつはもう人間じゃあないですよ、いや私の経験上でも、そんな人間はこの世にはいない」
田端は芳子に顔を寄せた。囁くように声を潜める。
「どうですか? いったい何があったのですか? 教えてもらえませんか」
「孝に――」芳子が呟いた。肩が震えている。
「はい? もっと大きな声で」田端が耳を寄せた。
「孝にちょっかいを出していたんです、あの女たち。孝は、孝をここまで育てるのに私がどれほどの思いをしてきたと思っているんですか、夫は仕事で全く家庭のことを省みてくれない、一人です、全て私ひとりで家庭をやりくりしてきたんです、そんな私の大切な、大切な孝を、あんなわけのわからない売女どもに渡してたまるか!!」
「渡してたまるか」の部分だけ芳子は歯を剥きながら絶叫した。
犯行後、芳子が見せた初めての感情的な姿にも田端は柔らかな表情を崩すことなく、書類に目を落とした。
「孝さん、というのはご長男の? 今、大学の三年生でらっしゃいますね」
取り調べの最初に、聞き取り作成した調書を見ながら淡々と芳子に問うた。
「ええ、慶応の医学部に現役で入学しましてね」先ほどの感情の爆発が嘘のように、芳子は笑顔を浮かべている。
「その孝さんに、三人が皆、その――ちょっかいを出していたと。貴方はそれが許せなかった、ということですか」
「そうです」再び能面に戻った芳子は、唇だけで応えた。
「しかし、息子さんをそこまで思っているのならば、貴方が殺人を犯して逮捕されてしまっては、却って息子さんの将来に差し障るのではないですか」
「そういうことを考えたときもあります」
前川は二人の遣り取りを記録しながら、言いようのない違和感を感じていた。それは皮膚の深いところで起こっている痒みのように、掻いても掻いても届くことのないもどかしさに似ていた。
「澤田さん、私もねえ、こういうふうに色んな人間と話す機会が多いとですね、不思議と相手が何を考えているの分かる瞬間があるんですよ。それでねえ、澤田さん。今もね、そんな感覚が私に起こっているんですよ」
田端は砕けた口調になった。多少、攻め方を変えるつもりなのだろう。
「今日は長くなるな」前川は長期戦を覚悟した。