第三章 殺人鬼の幻 4
後藤珠代は疲れていた。看護師長になった今でも週に一度は当直番をしている。若い時はどうということはなかったが、四十をすぎた辺りから急に体力の衰えを感じるようになった。夜間の病室巡回をしている今も、体がだるい、生欠伸を何度も噛み殺した。
懐中電灯の丸い光がリノリウムの廊下を照らしている。大部屋の扉を一つづつ開いて中の様子を覗う。後藤は何度も夜間巡回を行っているが、どうしても慣れることができない。
病院には怪談話がつきものであるが、看護師の間で語り継がれている怪談話は夜間巡回中の体験談が多いのも納得できる。
人の死が日常的に発生する病院という空間、病棟の闇の中に澱のように積み重なった人々の悲しみや情念が、夜になると壁のそこかしこから染み出してくるような錯覚を後藤は感じていた。
大部屋の巡回を一通り終えて、曲がりくねった廊下を歩いた。若い看護師達が皆、気持ちが悪いと噂している特別室のある病棟である。さらに今では二軒の殺人事件がこの棟で発生している。気味悪がった患者達は次々に退院し、今は数名の入院患者のみになってしまった。
最後の角を左に曲がって、個室病棟の廊下に出た。右側の窓から月明かりが差込み、深夜にもかかわらず明るい。
後藤は月明かりに照らされた青白い廊下の奥に、何者かが立っている姿を認めてぎくりと立ち止まった。目を細めて二三歩、歩みを進める。白い薄手の衣服を着た中年の女が立っている。
「奥さま、ですか?」
後藤は恐る恐る声を掛けた。女がゆっくりと近づいて来た。やはり澤田院長の妻の芳江である。後藤も緊張が解けた笑顔を見せて歩みを進めた。
「奥さま、こんなお時間にどうなさったのですか?」
芳江は何も応えない。ただ、口元に笑みを浮かべたまま近づいて来る。後藤は芳江が右手に何かを持っていることに気が付いた。白いビニール袋に何かを包んでいる。
二・三メートルの距離にまで近づいたとき、後藤は芳江の笑顔にただならぬ気配を感じた。笑顔と見えたのは口角を吊り上げた唇の形からであったが、目は狂気を含んだように大きく見開かれ、反面、黒目が異常に収縮して小さくなっていた。近くで見る芳江の顔は笑顔というより、口の裂けた悪魔の歓喜であった。後藤は冷水を浴びせられたように背筋が冷えるのを感じた。
「奥さま――」
声を上げる間もなく、振り上げられた包丁が芳江の肩口に突き立てられた。すさまじい痛みと熱さが後藤の頭の先まで突き抜ける。
さらに包丁が振り上げられる。後藤は身体をかわして攻撃を避けた。顔を上げた芳江が後藤を見た。唇はやはり笑顔の形のままだ。
「ぎゃああああああ」
悲鳴とも、鳴き声ともつかぬ声を上げて、後藤は逃げようと背中を向けた、だが、今度はその背中に凄まじい痛みが突き刺さった。
「ひいいいいいいい」
声にならない声が漏れた。あまりの激痛に体中から力が抜け、そのまま床に崩れ落ちた。床に赤黒い液体が広がっていくのが見える。
個室の扉の一つが勢いよく開く音が聞こえた。
「どうした!」という男の声、続いて「何だお前は!」という弩号。
何人かが争う音が聞こえているが、段々遠のいていく、目の前が霞み、瞼がひどく重い、誰かが肩に手を置いている、「大丈夫か?」と聞こえる。
後藤は意識が無くなる直前、獣のような咆哮を聞いた気がした――




