第三章 殺人鬼の幻 3
澤田芳子は目を覚ました。
見慣れた天井の模様が目に入る。ゆっくりとベッドから上半身を起こした。部屋の隅に置かれたライトが薄いオレンジ色に部屋の中を染めている。
窓には遮光カーテンが引かれ、隙間から陽が差し込んでいる気配はない。芳子はこめかみに走る軽い痛みに顔を歪めながらベッドの時計を見た、一時五十分を指している、どうやら真夜中であるらしい。
芳子はぼんやりと部屋に視線を投げていたが、何かを思いついたように急に目を見開いた。
「そうだ、孝、孝はどうしたのだろう、止めなければ! 孝を止めなければ!」
芳子は呟きながらベッドを抜け出した、白いネグリジェの裾が揺れる。視線は定まっていない。
「でも孝は、すでに二人も殺している。どうしよう、孝が警察に! そんなことになったらあの子の人生は――!」
ラジオのボリュームをひねるように段々、声が大きくなっていく。芳子は背中を丸めて俯いたまま、部屋の中の同じ場所を何度も円を描いて歩き回る。
芳子の動きは徐々に緩慢となり、円の動きは崩れ、やがて楕円に、無軌道にと変化していく。
俯いていた芳子が顔を上げた。表情に明らかな変化がある。目はこれ以上ないほど大きく見開かれ、口元には得体の知れない薄笑いが浮かんでいる。
「そうだ、私がしたことにすればいいんじゃない、そうよ、私が病院の殺人鬼になればいいのだ!」
語尾だけ叫んで獣のように歯を剥き出した。表情が目まぐるしく変化する。
芳子はそれまでの緩慢な動きが嘘のように早足で部屋を出た。階下に降りて暗い居間を通り抜け、台所に入る。
引き出しを開けて取り出したものは、刃渡り三十センチ近い出刃包丁であった。芳子は目の高さにかざす、口元に声のない笑いが浮かんだ。
スーパーの白いビニール袋に包丁を包み、芳子は台所を出た。居間を通り抜け、靴を履くことも忘れて、玄関のカギを開けて家の外に出た。思いのほか暖かい。生ぬるい風が頬を伝い、ネグリジェの裾を揺らす。
雲間から満月が顔を覗かせ、庭に長い陰影を落としている。家を囲む分厚い樹木が風を受けてざわめいている。芳子はゆっくりと歩みを進めた。
澤田邸から病院までは歩いて数分である。芳子は人目にふれないように裏道を通り、二十四時間解放されている独身寮と病院との連絡通路から病院内部に入った。
リノリウムの冷たい感触が素足に伝わる。ぺたぺたという足音が暗い病院の中に響いている。
芳子は真っ直ぐ前を見て整形外科病棟に向かっていた。