第三章 殺人鬼の幻 2
捜査本部の会議終了後、上野毛課長以下、青葉署刑事課の捜査員達は刑事部屋で短時間の捜査会議を開くことが慣例になっていた。管轄内で起こった事件に対する所轄刑事の意地が捜査員達を突き動かしている。
「どういうことだ?」
上野毛刑事課長が問うた。
「そのままです。澤田総合病院は盗撮カメラと抜け穴だらけ、ということです」
黒田は指の股深くに煙草を挟んで、掌を広げたまま喫いつけた。
「上品な顔した澤田院長は、とんだ盗撮マニアだった、というわけかい」
刑事課の係長である須崎が腕組をしながら唸る。
「どうりでホシの逃走経路が防犯カメラに残っていないはずだ」
上野毛の言葉に捜査員達は頷く。
「しかし黒田よ、おまえ何でカメラや抜け穴の存在に気が付いた?」
「勘ですよ、何故か昔から鼻だけは利くんですわ」
黒田は須崎の問いに、煙を吐きながら応えた。黒田の勘の良さは、刑事課の捜査員達は皆知っている。前川は、板井と目を合わせて頷いた。
「と、なるとホシはかなり絞られてくるな。抜け穴の存在を知っているのはどれくらいいるんだ」
上野毛の顔は徐々に上気し始めた、胸ポケットを忙しなく探って煙草を取り出す。
「裏は取れていませんが、恐らく澤田院長、近藤事務局長あたり、その他に数名程度ではないかと」
黒田は相変わらず表情を動かさない。
「課長、報告書まだ伏せときますか?」須崎が片眉だけを上げた。今、この情報を握っているのは青葉署の刑事課だけだ、本部を出し抜くチャンスでもある。
「しかし、どうしますか、院長の澤田は前川と本部の田端さんが担当してますし、その他にも本部の捜査員が病院関係者に付いてますが」
板井が前川にちらりと目を遣りながら言葉を挟んだ。情報は独占できるが、実際、動く人間は所轄関係者だけではない。
「俺から指導官に話をしてみる。今日の捜査会議の報告でも、病院関係者からはもう新しい情報は出てこないだろうという雰囲気が漂っていたように思う。多分、病院関係者は所轄に任せてくれるだろう」
上野毛の判断に刑事課の面々の顔が俄然輝いた、板井は軽くガッツポーズをしている。
熱気を帯びてきた刑事部屋の中で、前川は独り冷静だった。湧きあがる疑問をどうしても自身のなかで解消することができていなかった。
「ちょっと宜しいでしょうか?」刑事課の一番端の机から、前川は小学生のように手を挙げた。
捜査員達が一斉に振り向く。「なんだ? どうした、前川」と板井が隣の席からささやく。
「澤田院長は、どうして病院内に盗撮カメラを張り巡らし、抜け穴を作らなければならなかったのでしょうか?」
一瞬、刑事部屋の空間に穴がぽっかり空いたような空白の時間が生まれた。「それはだなあ」と須崎が言葉を継ごうとするが続かない、黒田は無表情で煙を吐いている。
前川の疑問は至極当然であった。しかしながら、久方ぶりの捜査の進展に色めき立ち、すっぽりと全員から抜け落ちていた疑問でもあった。
「その点はまだわからん、まずは澤田院長、近藤事務局長への聞き込み、抜け穴の捜索が第一だ。その中で前川の疑問も氷解していくだろう」
上野毛は二三口喫いつけた煙草を、アルミの灰皿に押し当てながら応え、刑事部屋に空いた空間を埋めた。
「よし、それでは明日の担当割を決める――」
時間は夜の十一時を過ぎている、青葉署の刑事部屋の熱気が春の闇に染みだしていた。