第三章 殺人鬼の幻 1
澤田総一郎は書斎の椅子に腰かけていた。机に両肘をつけて掌で額を支えている。
澤田は苦悩していた。目を固く閉じ、鼻の周りに皺を寄せた表情には苦しみの深さが滲み出ていた。
やがて澤田は顔を上げ、机上の携帯電話を手に取った。ボタンを押して受話器を耳に当てる。目には決意の色が浮かんでいる。
「お疲れ様でございます院長、近藤でございます」
電話の相手は澤田病院の事務局長、近藤義一であった。
「ああ、お疲れさま。病院のほうの様子はどうだい」
澤田はできるだけ平静を装って声を掛けた。
「それが、昨日の件で警察関係者やマスコミの対応に追いまくられておりまして、事務局のほうは通常の業務に支障をきたしておる状況でございます。なんとか院長のご自宅や診療にまで騒ぎの類が及ばないように努力しておるのですが、いかがでしょう?」
澤田の脳裏に、ハンカチで汗を拭くでっぷりと太った近藤の姿が浮かんだ。
「ああ、おかげでこちらのほうに騒ぎは及んでいない、助かるよ」
澤田が応えると、すこしの沈黙の後、近藤が一段低い声で問うた。
「院長、あの刑事はまだ何も言ってきませんか?」
「ああ、まだ何も言ってこない。だが、三田君のところを知ったからには、時間の問題だろう」
「大変申し訳ございません。私の力が及びませんで」
青葉署の黒田と名乗る刑事が三日前、病院の設計・建築を請け負っている業者を教えろと事務局に乗り込んできた、と報告を受けていた。
澤田も黒田という刑事を遠巻きに見たことがある。背が異常に高く、暗い陰影を常に纏っているような不気味な印象の男であった。
「止むをえないさ、下手に隠せば余計に疑われてしまう。それよりも――状態のほうはどうなのだ?」
「はい、ひとまず落ち着いてらっしゃいます。しかしながら、いつまた再び――」
近藤の声は、それ以上言葉にすることがはばかられるとばかりに途切れた。
「そうか、君には苦労をかけて本当に申し訳ないね。私もずっと考えていたのだが、ようやく決心がついた。もはやこれ以上は無理のようだ」
澤田の顔が今にも泣き出しそうに歪み、声が揺れた。
「院長、それでは――?」
「もはや“処置”をするしかなかろう、出来るだけ早いうちに行うつもりだよ」
澤田の応えに近藤の声はなかった。無言で頷く気配だけが届いた。
澤田は窓際に立って外に目を遣った。自宅を囲んだ緑の木々の間から、白い桜の花が揺れているのが見える。桜は盛りの季節を終えようとしていた。
澤田は窓から離れ、書斎を出た。芳子の寝室の前で足を止める、ゆっくりと扉を開けた。
部屋はベージュを基調とした落ち着いた雰囲気でまとめられ、レースのカーテン越しに春の柔らかな陽が差し込んでいる。
ベッドに横たわる芳子に近づいた。薬が効いたのであろう、軽い鼾をかいて眠っている。澤田は芳子の髪を柔らかく撫で、口元に笑みを浮かべると、振り返って出口に向かった。音を立てないように扉を閉める。一階に降りて、屋敷のさらに奥に進んだ。
渡り廊下を通って、木造の古びた作りの棟に入ってゆく、澤田邸の旧宅である。今ではほとんど使われることなく、全ての窓は雨戸で閉じられている。
澤田が旧宅の棟に足を踏み入れることは久しくなかった。長い時間をかけて積み重ねられた闇が澱のように淀んでいる。
澤田はライトを点けた。蛍光灯が驚いたように何度も点滅を繰り返し、黄色っぽい光を放つ。家財道具は何も残していない、ただ、がらんとした空間が開いているだけだ。歩みを進めた、床には埃が溜まり、通った跡が足跡となった。壁に手を付くと指先が黒く汚れた。
澤田はかつての居間を横切り、さらに奥の座敷に進んだ。座敷の一番奥に、巨大な金属製の扉が鎮座している。鍵穴に鍵を差し込む。シリンダーが外れる音の後、両手で取っ手を握り、全力で手前に開いた。
開いた扉の奥は闇であった。澤田はスウィッチを探りライトを点ける。地下へ向かう階段が続いている、階下の底には、やはり闇が横たわっている。
澤田はゆっくりと階段を降りた。埃と黴の混じった臭いが立ち込めている。下るにつれて澤田の全身を、徐々に地下の闇が包んでいった。