第一章 ひとりめ 2
翌朝、横浜市青葉署の刑事である前川功は、コンビを組んでいる板井幸男とともに、現場に向かっていた。
「おお、そこだ。そこの交差点を曲がれ」
いかつい肩からのびる太い右腕を前方に伸ばして、板井が方向を指し示した。短く刈りこんだ頭髪と、柔道でカリフラワーのように潰れた耳を持つこの中年男は、見かけからは考えられないほど甲高い声を出す。
「わかりました」前川はハンドルを右に切って公園とドラッグストアに挟まれた細い道路に入った。
車は、両脇に桜の樹が続き、花びらがはらはらと散る中を進む。調剤薬局や飲食店が軒を連ねる様は、さながら門前町の様相である。
やがて進行方向右手に、丘の上にそびえる、病床数五百を備えた澤田総合病院の白い建物が姿を現した。
門の中に車を乗り入れ、ゆっくりと桜が舞い落ちる緩やかな坂を上る。既に玄関には数台のパトカーが停車していたが、前川らは玄関前を通り過ぎ、車を駐車場に入れてから早足で職員入り口に向かった。
職員口から院内に入ったところは、総合受付であった。朝六時を過ぎたばかりで、正面玄関は開いていない。院内は暗く、人影はない。
前川は、板井に続いて受付の前を通り過ぎ、正面の階段を上った。階段を上り切ったところに二階の見取り図が掲示されていた。
見取り図は、迷路のように入り組んだ病院の構造を示しており、ひと目で目的地までの道のりを憶えることが難しいほどだ。「こりゃあ、迷路だな」印象そのままを口にして、すっかり道順の理解を諦めてしまった板井を尻目に、前川は歩き始めた。
最初の角に、制服姿の警官が立っている。前川の姿を認めると無言で現場の方向を指し示す。板井も後について来る。
前川らは、制服警官が立つ角を何回か曲がって、ようやく現場の整形外科病棟にたどり着いた。
パジャマ姿の入院患者達が、遠巻きに幾重もの輪を作って集まり、何やらひそひそと小声で話している。背の高い前川には、患者越しに現場の辺りだけが煌々と明かりに照らされているのが見えた。周りに立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされ、テープの内側に警官が立ち塞がっている。
前川らは患者達の輪の間を分け入り、現場であるナースステーションの前にたどり着いた。立ち塞がる警官に手帳を見せ中に入る。
ナースステーションの入り口は青いビニールで覆われ、外からは中が覗えないように目隠しされている。前川はビニールの端を上にあげて板井を先に通し、後から中に入った。扉は開け放たれ、鑑識課員が指紋採取の作業を行っている。
刑事課の係長である須崎順三が、前川らの姿を認め近づいて来た。
「おう、お疲れ。久々にひでぇぞ、こりゃぁ――」
顔を歪めながら前川の背に手をあてて、部屋の中に促した。
部屋に入った途端、むせ返るような生臭い匂いが前川の鼻孔を襲い、次いでこの世のものとは思えぬ光景が視覚を襲った。
ナースステーションの中はまさに地獄絵図であった。驚くほどの量で部屋の真中に溜まった血の池は、脂分がぬらぬらとライトを浴びて所々光り、一方で凝固が始まって赤黒く変色していた。
血の池の中に横たわる死体が、看護師であることは衣服から明らかであった。ただ、白い制服は血で赤く染まり、頭部が――無かった――。切断面はざくろのように赤黒く熟し、中心部に白い骨が露出している。
「こりゃ、又ずいぶん派手にやってくれたな――」
板井はベテラン刑事らしく凄惨な光景にも顔色ひとつ変えず呟いた。
「ひでぇだろ。詳しいところはまだこれからだが、他に外傷が見当たらねぇ。となると、ホトケは、生きたまんまバッサリやられたことになる――」
前川は死体に向かって合掌した後、問うた。
「頭部は、見つかったのですか」
前川はむせ返る悪臭に耐えながらも、平然とした表情を辛うじて保つことができた。こんな場面で目を背けてしまっては、後で馬鹿にされること間違いない。
「ああ、中庭の植え込みの中からな。多分、あそこの窓から投げ込んだんだろう」
須崎は応えながら、前方の開け放たれた窓に顎を振った。
前川は血の池を慎重に避けながら窓に近づき、外を見下ろした。桜の樹に囲まれ、自転車置き場に面した中庭には立ち入り禁止の黄色いテープが結界のように張り巡らされている。散った花びらの桜色の絨毯が敷き詰められた所々で、鑑識課員がうずくまり、警察犬が臭いを嗅ぎながら歩き回っている。
「前川、課長が呼んでる」背後で声がした。振り返ると真近に板井の四角い顔があった。
「課長が――?」
「第一発見者が若いねーちゃんだそうだ。俺らみたいな厳ついゴリラより、二十代で優男のお前の方がイロイロと話しやすいだろうってな」