第二章 ふたりめ 10
「孝、あなた最近、帰りが遅いことが多いけれど大学の勉強のほうは大丈夫なの?」
澤田芳子は、部屋の入口に立ったまま息子の孝に声を掛けた。
「大丈夫だよ、母さん。僕は最後にはきっちり辻褄合わせるタイプだから」
孝はベッドに腰を下ろしたまま、笑顔を見せる。
「でもお父さんも心配してるわよ。最近孝をちっとも見かけないけれどちゃんと学校行っているのか、って」
「我が家の両親は息子に対する信頼がないなあ。僕は今まで父さんや母さんの期待を裏切ったことがある?」
孝は芳子によく似た丸顔をしかめて不満を表明している。
確かに孝は、今日まで芳子や総一郎の期待に違わぬ進路を進んできた。総一郎の勧める剣道でも県大会で優勝するほどの優秀な成績を残し、勉学においても現役で慶応の医学部に入学した。まさに文武両道、澤田総合病院の跡継ぎに相応しい息子である。
「まあ、それはそうだけれど――」芳子は反論できなかった。
(ほんとに、年々口が達者になっていくわ)
芳子は思いながらも、そんな憎たれ口をきく孝を柔らかく微笑んで見つめた。逞しい青年に成長した息子が愛おしくてたまらなかった。
「ああ、そうだ。母さん、最近僕の部屋に入っただろう?」
「え――?」
「母さんは僕が気が付いていないと思っているのだろうけれど、生憎、僕はそんなに鈍感じゃないよ」
芳子は何も応えられない、ただうろたえるばかりであった。
「母さん、そんな顔しなくてもいいよ。別に見られて困るようなものは置いていないから。でも、いくら親子とはいえ、勝手に色々覗かれるのはあまり気持ちのいいものじゃないから――」
「そんな、覗くなんて私は――」芳子は顔を赤らめた。
「はい、この話はおしまい。それで? 何? 僕に用があったんでしょう」
孝は一転、丸顔の愛くるしい笑顔を見せて芳子に問うた。
そうだ、今日は孝に“あの本”のことを尋ねようと思っていたのだ、そう考えてみると孝が逆に切り出してくれて話しやすくなったと言える。
「実はね、孝。あなたの読んでいた本のことだけれど――」
芳子は伏目がちに孝を見た。孝は邪心のない大きな目で真っ直ぐに芳子を見ている。
「あの、『猟奇殺人研究』とかいう本なんだけど、ほら、お父さんの病院であんな事件があったばかりじゃない、だからきっと何かあなたが研究のためにでも読んでいるのかな、と思ったんだけれど――」
「ああ――」
孝が芳子の言葉に声を被せた。
「あの本を見たの?」発した声は驚くほど低い。
芳子ははっとした。笑顔を浮かべた孝の唇が見る間にねじれていく。
「どう思った? 母さん」孝は俯きぎみに芳子を見る。
「何を?」心臓の鼓動が高まる。
「――素晴らしいだろ、あの本」俯いた額越しに射られた孝の視線は、芳子に真っ直ぐ向かっている。芳子は視線に縛り付けられ、身動きすらできない。
「素晴らしいんだ――」
孝の表情が一変した。虚空を彷徨いはじめた視線は焦点を失い、口元はだらしなく緩んだ。
「孝、あなた――まさか?」芳子は全身の震えが止まらない、、ぬめった汗が体中に噴き出し、膝が震える、立っているのがやっとだ。
「そう、僕だよ、病院の殺人鬼は」
孝はゆっくりと立ち上がった。口元には得体の知れない薄笑いが浮かんでいる。
「気が付いていたんだろう? 母さん」
ゆっくりと芳子に近づいてくる。笑顔には狂気が潜んでいる。
「言ったろう、僕が母さんの期待を裏切ったことはないって――」
芳子は我が子の恐ろしい告白に「ひい」と声を上げ、その場に倒れた。