第二章 ふたりめ 9
青葉署の黒田康司は、三英設計事務所のエントランスフロアのソファにひとりで腰かけていた。上着のポケットから潰れた煙草の箱を取り出して中を探る、くしゃくしゃになった一本を取り出して火を点けた。
捜査員は常に二人で行動するのが大原則である。しかしながら黒田はコンビを組んだ県警の捜査員に一種の取引を持ち出した。捜査本部を出るときと戻ってくるときだけ時間を合わせて、それ以外は全くの別行動にしないか――と。
県警本部においても黒田の噂は響き渡っていた。身勝手で、組みにくい相手の典型のような男――、黒田の提案はすんなりと受け入れられた。
煙を吐きながら周りを見渡す。高い天井、磨きこまれた床、適度な間隔を置いて設置された一人掛けのソファには、他にも商談待ちと思われるスーツ姿の男達が数名、腰を下ろしている。五階建ての自社ビルといい、設計事務所というより企業のエントランスの様相である。
灰を落とそうと灰皿を探すが見当たらない、黒田が受付に目を遣ると、怯えた表情の受付嬢が慌てて目を逸らした。
斜め後ろから携帯用の灰皿が差し出された。黒田が振り向くと、小太りの銀縁眼鏡の男が口元に笑みを浮かべて立っていた。
「刑事さん、こちらでの喫煙はご遠慮いただいておりますので」
目だけが笑っていない典型的なサラリーマンの笑顔であった。黒田は差し出された灰皿に煙草を投げ込むと、ゆっくりと立ちあがった。警察手帳を開いて身分証明を見せる。
「青葉署の黒田です」
全身黒ずくめの服装で百九十センチを超える長身の黒田に、男の笑顔は見る間にひきつっていく。
「し、失礼いたしました。総務課の相沢でございます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
相沢は米つきバッタのように何度も頭を下げながら、半身になって前方を指し示した。黒田は黙って頷き、相沢の後ろをゆっくりとエレベータホールに向かう。
社長室はエレベーターを最上階の五階で降りた真正面であった。
「こちらでございます」相沢がマホガニー材の重厚な扉を開いて体を退かせ、黒田を社長室に導き入れる。
黒田は社長室に足を踏み入れ、室内を見渡した。広い、恐らく五階のワンフロア全てが社長室として使われているのだろう。壁には設計した建物の写真がいくつも飾られ、部屋の真ん中に高層ビルの大きな建築模型が鎮座している。
窓際に設置された執務机のほうから貧相な小男が近づいてくる。
「黒田さん、ですね。まあ、どうぞお入り下さい」
薄い頭髪に大きな頭、乱杭歯ぎみの口元、線をひいたように細い目に、貧相と表現してもよい体躯、とても一代で設計事務所の業容を拡大させたヤリ手経営者には見えない。だが、間違いなく彼こそが三英設計事務所の代表取締役、三田栄吉であった。
黒田は下がる相沢に目顔で挨拶すると、三田が指し示すソファのところにゆっくりと歩みを進めた。
「青葉署の黒田です」黒田は名刺を取り出して三田に差し出した。
「まあ、どうぞお掛け下さい」三田は名刺を受け取り、着席を促した。
黒田はソファに浅く腰を下ろすと、両肘と両膝を付ける形で上半身を三田に寄せる。
「それで――、青葉署の刑事さんが私共に御用とはいったいどんなことでございましょう」
三田は、黒田の向かい側のソファに深く腰を下ろして肘掛に両手を広げ、ゆったりとした笑みを浮かべながら問うた。
「澤田総合病院の設計図面を見せていただきたい」黒田は単刀直入に応えて、三田に視線を当てた。
「澤田総合病院の図面ですか――? それはいったい何のために?」三田は表情を変えず笑顔のまま、再び問うた。
黒田は視線を三田に向けたまま、ゆっくりと煙草を取り出し火を点ける。
「詳しくは言えない、捜査上の問題なのでね」
黒田の応えに三田の笑顔が消えた。黙って視線を黒田に返す。
「お宅は、澤田院長とは幼馴染みだと聞いたが――」黒田は視線を外さない。
「ええ、そうです。それが何か?」三田の片眉が僅かに上がる。
「澤田総合病院の増築は全て、あんたのところが引き受けているようだが、随分いい商売になったんじゃないのかい」
黒田は言葉を区切った、だが三田は何も応えない。
「あんたの事務所がここまで大きくなれたのも、澤田院長のおかげ、ってわけだ」
黒田は部屋の中を見渡す。
「仰りたいことの意味が分かりかねますが」
三田の眼の間に僅かに敵意の光が漏れている。
「言葉どおりだよ。ただでさえ消防法ギリギリの複雑な構造の上に、さらに公開していない設備や構造を備えているな、澤田病院は――」
黒田は煙草の煙を仰向いて吐くと、眼に尋常でない光を湛えて言葉を継いだ。
「お前のところは、違法設計と建築を引き受けることで澤田病院の増築を独占的に受注してきたんだろう」
「ばかな――! 何を根拠にそんなことを」三田の頬が紅潮した。
「三田さん、澤田総合病院は多分、長くない。いや、病院は存続しても澤田院長はもう無理だ。あんた、澤田さんと、この事務所心中させるつもりかい?」
黒田は顔を寄せ、声を潜めた。
「澤田院長が? 何故だ?」三田の表情が大きく歪む。
「それは――、ここだけの話として教えといてやる。だが、あんたもこの話を聞いたからには俺に協力してもらうぞ、いいな」
不安げな三田の表情を眺めながら、黒田は両手を肘掛に広げてソファに埋まった。