第二章 ふたりめ 5
「芳子、僕も一応、仕事中なのでね。事前に電話くらい貰えると有難いんだが――」
総一郎は、書類から目を上げ、眼鏡を外しながら立ち上がった。
「ごめんなさい、あなた。でも、どうしてもお話ししなければならないことですの」
芳子は、総一郎の執務机の前に設置されたソファに腰かけたまま頭を下げた。
「なにがあったのだい?」
総一郎は、突然の訪問をそれ以上とがめることなく、向かいのソファに移動して腰を下ろした。芳子を見る目は相変わらず柔らかい。
「それが――、孝のことなの」
「うん――?」総一郎の表情に僅かに影が浮かんだ。
「あなたには、叱られるかもしれないけれど――、この前、孝の部屋を掃除していたとき本棚の中に変な本が隠してあるのを見つけたの」
「――それで?」総一郎は、ため息まじりにソファに背を預けた。叱られる――と、芳子は感じた。自然と視線が下がる。
「あなた、怒らないで聞いて下さいね。それでね、その本の題名が『猟奇的殺人研究』なんて恐ろしい題名なものだから、私、中を開いてみたの、そしたら――」
「中身は恐ろしい死体の写真ばかりだったのだろう」
総一郎が、言葉を被せた。芳子は、はっとして顔を上げた。
「どうして――?」
「芳子、君が見た本は、僕の蔵書だよ。いつもは執務室に置いてあるんだが、あんな事件があったからね。過去の類似事件の研究を私なりにできれば、と思って自宅に持って帰ったのさ」
「それじゃあ、孝は――」
芳子は、心が晴れて行くのを感じていた。やはり、あんな恐ろしい本は孝のものではなかったのだ、やはり孝は、医学の研究のために――
「芳子――」総一郎はソファから背を離し、両肘と両膝を付けるようにして芳子に上体を寄せた。
芳子は、総一郎の顔を見た。眉の間に縦皺を寄せて、悲痛な表情で視線を向けている。芳子には総一郎の言わんとすることが、わかった。
「芳子、もう、いいかげん――」
「待って、わかったわ、あなた」今度は芳子が総一郎の言葉に被せた。
「あなたの仰りたいことは、よくわかります。だから、だから――、もうしないわ。孝だって、もう大学三年生ですものね。私も子離れするわ」
芳子の言葉に、総一郎は何か言いたげであったが、やがて笑みを浮かべて「そうか」とソファに背を預けた。
「お忙しいなか、ごめんなさい。私、これで失礼いたしますわ」芳子は立ち上がると、扉に向かった。
「ああ――」
扉のノブに手を掛けて、ふと芳子は振り返った
「あなた、今日も遅くなりそうなの?」
「ああ、多分ね――」
「そう、あまり無理なさらないで下さいね。孝も心配してるわ」
総一郎は何も応えず、笑顔で手を上げた。
「じゃあ」芳子はゆっくりと閉じていく扉の間から、総一郎が大きなため息とともに表情を戻すさまを眼の端で見ていた。