かつて国の宝といわれた人だった
くめどもくめども、尽きぬ欲。
情欲とは、獣の欲である。
「婚約を破棄させてほしい」
まさしく、家のための結婚だった。
ロジャー・メティスには金が必要だった。
イサン・イグニット。彼の家には家柄が必要だった。
利害関係で結ばれた脆い関係だった。
「勿論、持参金の返還と手切れ金としてアウラ領の一部を譲渡しよう。君の叔父様にもよろしく伝えておいてくれ」
イサンはいつも淡々と話す。だから、ロジャーは感情ののらない声からひとかけらだって情を感じなかった。
「すまないな、メティス嬢。縁がなかったと諦めてくれ」
イサンがいなくなった部屋でパタパタと扇を扇ぐ。
ロジャーはこの現実が受け止めきれないでいた。
十八。結婚適齢期だ。このまま式の日取りを決めようと、イサンの両親達は口々に言っていた。
それが、何故こうなってしまう?
突然、婚約を破棄された?
頭痛が酷い。水を飲もうと呼び鈴を鳴らす。
――来たのは、使用人ではなかった。
「お、叔父上様」
真っ赤な瞳がロジャーを見つめている。元々名のある騎士だった叔父のファウストは、体ががっちりとしていて肩幅も広かった。
身長も高いので、壁に寄りかかっている姿は威圧感があった。
「アウラ領の倅が来ていただろう」
アウラ領とはイサンの家系、イグニット家の治める土地だ。
今では横着した貴族達がイグニット領と呼んでいるが、ファウストは昔気質の人なのでアウラ領と呼んでいた。
「は、はい」
「…………」
「え、えっと、叔父上様」
誤魔化しても仕方がない。イサンが婚約を破棄したいと言い出したのだ。
あの婚約者は無口だが、馬鹿じゃない。やがて正式に書面が送られてくるはずだ。
「イサン様が、婚約を解消したいと仰っていました」
「………」
眉がくいっと上がり、続きを促される。
ファウストもイサンと同じく無口だった。冷や汗を扇で誤魔化しながら口を開く。
「聖女メディアが彼に招集をかけたそうです。この国の美男子をより集めてその中から伴侶を選ぶそうで」
イサンは整った顔立ちをしていたため選ばれた。
「……そんなことで婚約を解消しにきたのか?」
「神殿側からの要求だそうです。聖女がいるのに、婚約者もいるなど身の程をわきまえぬ蛮行だと」
「愚かな」
ファウストは理解できないと言わんばかりに目を伏せた。
「神殿の連中は聖女の逸楽を政治の道具にしようとしているだけだ」
「ですが、イグニット伯爵家が受け入れたのです。領の一部を譲渡すると言っていました。――それに持参金も返却すると」
「……分かった。ロジャーお前に未練がなければ次の縁談を探してこよう」
ロジャーはこくりと頷くことしか出来なかった。
婚約を結ぶにあたってやめた色々なことが急にぶわりとよみがえった。
は、と息が詰まりそうになる。淑女であるために諦めた一つ一つが、ロジャーという人生において本当の意味で無駄になった気がした。
「よろしい。……俺は仕事に戻る。お前は部屋で休んでいなさい」
口の中がカラカラに渇いている。叔父のファウストは項垂れながら、部屋を出て行った。
両親は流行病で亡くなった。
メティス家の跡取りはロジャーだけ。成人を迎えてすらいない子供だった。
代理としてメティス家の当主となったファウストは、魔法騎士として武勲をあげ、英雄とまで称された人だった。だが、メティス家の当主は代々、王宮の廷吏として勤めねばならない。
輝かしいファウストの経歴は、書類仕事には全く意味をなさなかった。彼は剣を握り研鑽を積んでいた時間を書類仕事にあてた。
その間、三ヶ月。住んでいた屋敷は使用人達の好き勝手にされた。
王宮につめていたファウストが屋敷に戻った時、そこにいたのは使用人に長い髪を切られて呆然とするロジャーと、着飾った使用人達だった。
ファウストは彼らを一人残らず斬り殺したが、あまりにも残虐だと王妃に咎められ、閑職に回されてしまった。
それからは没落の一途だ。不正を行った使用人や横領をした執事を処分した頃にはもう貴族と名乗れるほどの富はなくなっていた。
宮仕の叔父の俸給が使用人達の給料で全て消えたとき、ロジャーは自分がこれまで通りぼんやりと生きていけないのだと気がついた。
ドレスは二着しか残らなかった。イサンに金がないことを悟られるわけにはいかない。だから、必死で二着を同じ服に見えないように着回した。
母が使っていたドレスは使用人達が宝石が散りばめられているところだけを切り取って持って行ってしまったから、もう切れ端しかない。
幸い、イサンは服のことに興味はかけらもなかった。彼は文学が好きだったし、自然を愛していた。
悪い人ではなかったのだ。ただ、無口なだけで。
屋敷にいると悪いことばかり考える。
ファウストはロジャーの件を聞いて、飛んで帰ってきてくれたのだ。
なのに、ロジャーは彼のために何も出来なかった。
むしろ、役立たずでどうしようもない。待っているしか出来ない。
――それが、どうしても嫌だった。
聖女がいる大神殿に向かったのは、衝動的な行為に違いなかった。
御者は、面倒くさそうにここで待っていますんでと言った。
侍女も連れず、貴族の女が情けないと言っていた叔父の言葉がよぎった。分かったと頷く。
ヒールの高い靴は代理石の回廊を踏むたびに耳障りな音を残す。
古びたドレスのせいか、歩いているだけであちらこちらから視線を向けられる。
それでも良かった。ロジャーは怯んだりしない。
「もしかして、メティス嬢?」
視線を向けると、ピンク色の髪と瞳を持った令嬢が一人、大神殿の中庭を見遣っていた。
ちらりとこちらに向いた瞳には、好奇心が浮かんでいた。
「ラオネル嬢」
「君も婚約者を取られた腹いせにここに来たのか? なら私と同じく門前払いをされるだろうね。我らの慈悲深い聖女様は男以外とは会いたくないらしい」
「…………ラオネル嬢も?」
ラオネル嬢の婚約者であるマイヤー卿は子爵の次男だった。
二人は仲睦まじく、ラオネル家とマイヤー家は懇意で、婿取りの予定だったはずだ。
「そうだよ。困ったことに父は怒り狂っていて神殿への寄付金も打ち切るという始末さ。私の面目も丸潰れでね。指を詰めろと言ったらマイヤーのやつ、飛んで逃げ出しやがったよ」
「か、過激……」
そういえば、ラオネル嬢は女性にも関わらず弓の名手と名高く、鹿狩りでは王太子の代わりに鹿を射たという。
「過激なものか。家同士の約束、簡単に解けると言う方がどうかしている。聖女様はご乱心なされたのだと神官どもが口にしないのがおかしいぐらいだろう」
「神官様はどちらに」
「さあね。私がきたと言うのに、使いしかこなかった。みろ、ほら。聖女様は楽しく中庭でお茶会のようだよ」
ラオネル嬢をなぞるように視線を向ける。
そこには、確かに水色髪の女性がいた。年は二十歳前後。
豊満な胸を見せびらかすようにして晒している。聖女という名前とは裏腹に淫蕩さが滲み出るようだった。
ロジャーはちょうどいいと笑みをこぼす。
探す手間が省けた。
「……メティス嬢?」
「聖女様にご挨拶を。それにご提案もありますし」
「流石に謁見の許可もないのはどうかと思うが……。こら、待ちたまえよ」
ラオネル嬢の制止をふり切り、ロジャーはずんずんと足を進ませた。
聖女の側には神官の一人であるザブナックが控えていた。ロジャーも説教で顔を見たことがあった。
彼はロジャーを見るなり、目を丸くして固まった。
ちらりと聖女はロジャーに視線を向ける。
だが、それだけだった。
中庭の噴水は見事で、花壇にはデイジーが咲き乱れていた。紫色の綺麗で小さな花は水でかすかに濡れている。
そういえば朝、雨が降っていた。ロジャーはそんなことを思い出した。
「ごきげんよう、聖女様。ザブナック卿」
「メティス様、困ります。あなた様であろうと、聖女様にお目通りを願うならば先に使者を立ててくれなくては」
「そうなのですか? それは失礼しました。私には、婚約者を取るとご連絡いただけなかったものだから不要なのだと思っていました」
ぴくりと聖女の眉が動いた。
「それに、先ほどラオネル嬢と会いましたが彼女は謁見を願ったものの叶わなかったと聞きました。ですが、聖女様はお暇そう。ラオネル嬢もお呼びしましょうか?」
振り返ると、ラオネル嬢がこちらを見ていた。状況を探っているのだろう。
「婚約者のことでお越しなのですよね? でしたら、私どもでお話をお聞きします」
「ザブナック卿、私は聖女様のお言葉が聞きたいのです」
「――うるさいわね」
虫でも払い除けるような声で聖女は口を開く。
「男に逃げられただけでぴいぴいぴいぴいうるさいのよ」
「聖女様、どうかメティス嬢を刺激しないで」
神殿が担いでいる聖女は、研究所所属の天才、ディミトリ・ロボトミーに役割を全て奪われている。
奇跡のみわざ。神秘の魔術は、解析され一般化してしまった。
もう誰も大怪我を負っても、不治の病に罹っても神殿の聖女を頼らない。
神殿に提示される寄付金より、医者に処方される医療用魔石の方が安いし簡易だからだ。
神殿の地位は失墜し、市政のほとんどは聖女に対する信仰心を捨てた。
それでも貴族達は慣習に従い、寄付金を積み、祈りを捧げに来る。
だが、ほとんど惰性だ。
「黙って、ザブナック。誰が発言していいといったの? アンタよりアタシの方が偉いの分からないの?」
「……申し訳ありません、聖女様」
「分かればいいのよ。それで、この女は? 邪魔なんだけど」
「聖女様、メティス嬢です。ご所望されたイサン・イグニット卿のご婚約者であらせられる」
「婚約者だった、でしょう? 今では、何の関係もない女よ。その女がアタシの貴重な時間を奪おうって言うの」
スコーンにバタークリームを塗り付け、口に頬張りながら聖女は言った。神託の巫女である彼女は、貧民街の出身で、いくら時間をかけようが性根が変わることはなかった。
粗雑で下品で……教養がない。
口元をクリームでベタベタに濡らしても、拭おうともしないのだ。
「聖女様、お願いしたいことがあって参りました」
「お願いしたいこと? 何よ、怪我でも治せって? ハッ、流行りの魔石でも試したら? そっちの方が簡単で安くてそれに綺麗に治るわよ」
「……我が叔父のことです」
ザブナックはギョッとしたように目を見開いた。
この国の誰もが一度はロジャーの叔父、ファウストの高名を聞いたことがある。力強く誇り高い騎士――だったと。
「叔父? ああ、名高い魔法騎士のファウ……なんちゃら?」
「ファウスト・メティス。我が家の誇りです。聖女様。貴女の僕になるかもしれない」
「メティス嬢。何を言っていらっしゃるんです!?」
「ファウスト・メティスを、この国で最も強い騎士を、護衛として侍らせたくはありませんか」
ファウストを……偉大な叔父を物のように扱っている。
そう思うと、どうしようもなく胸が疼く。
けれども、ロジャーにとってこれは一つの賭けだった。婚約者がいなくなった何の役にも立たない令嬢。そんな女が出来るたった一つのこと。
「私の叔父は強く、顔も整っております。聖女様のお眼鏡にも必ずかなうと思います」
「……ふうん」
聖女は試すようにロジャーを見つめた。
「いいんじゃない? 強い男は嫌いじゃないし、英雄様を侍らせるのも楽しそう」
「……! そうですか、ならば」
「騎士の下……なんて言ったっけ、見習い? それだったらいいわよ」
ロジャーは目を見開いて固まった。
「剣とか盾とか、服の仕立てとかそういう雑用をするんでしょ、見習いって。それだったら年増の男でも使ってやって構わない」
「……、冗談ですよね?」
王宮の官吏など、叔父には似合わない。神殿で聖女を守る騎士の方がずっといい。
未婚の姪のために、ファウストが払った犠牲は多かった。ロジャーがいなければ、彼はメティス家を捨ててしまっても良かったのだ。
ロジャーが彼にそうさせた。騎士の地位も、借金も、婚約者に捨てられた哀れな姪を持つ叔父という不名誉な事実も、背負わせてしまった。
「冗談って? アタシの護衛はもう決まってんの。よぼよぼのおっさんにあげる場所なんてそれくらいだって言ってるの」
「――なんですって?」
屈辱で頭がどうにかなりそうだった。
叔父を、年増だと? よぼよぼのおっさん?
誰のことを、このアバズレが口汚く罵るのか。
「は、ハハハ、聖女様。知っていらっしゃる? 私とイサンは結婚を目前に控えていたの。持参金の受け渡しのときに大神官様を呼んで宣誓式を行った。破談になる場合は、一年間の空白期間を設けなくてはならない。――婚約を解消すれば貴族の中では令嬢側が他の男性と姦通を行ったいうことだと認識されているの。私は貴女のくだらない乱行に巻き込まれて、婚前に他の男と交わった淫らな女だと認識されるの。叔父だって酷く中傷される。下手をすると、叔父がその相手ではないかと疑われてしまう」
「だから何なの? そんなのアタシが知ったことじゃない」
「これは神殿側への譲歩でもあるんですよ。聖女様の行いはそれほど愚かな行為なんです。宣誓式を結ばせた神殿が、宣誓式を破棄させた。悍ましい行為です」
「だから何よ、神殿の馬鹿どもが困ろうがどうだっていい。アタシはアンタのことも、この馬鹿げたお飾りの場所も大っ嫌いなの! 年増の男も、ピィピィうるさい令嬢も、全部全部嫌い!」
ああ……、そうか。
この女は、死ぬべきだ。
ロジャーはやっとそんな単純なことに気がつくことが出来た。
聖女の髪は長く、掴みやすかった。
ザブナックも、まさか令嬢が聖女に手を出すとは思っていなかったのだろう。反応が遅れた。
勢いよく、聖女の髪を掴んでティーセットの乗ったテーブルに叩きつけた。ガチャンと音が鳴り、茶器がごろりと落ちた。透き通った色の紅茶がぼたぽたと垂れる。
「聖女様!」
「大丈夫です、聖女様。貴女のお力ならこんな傷ものの数秒で治ります。私の名誉も治して欲しいぐらい」
何度もテーブルに打ちつける。頭が空っぽだからか、軽かった。
「やめてください! メティス令嬢、落ち着いて」
ロジャーをラオネル嬢が羽交締めにした。
「ザブナック卿、早く聖女様を安全なところに……」
「は、はい」
連れて行かれる聖女に対して怒りが頂点に達した。
何を逃げている。殺してやる。戻ってこい。
周りに守られて何様のつもりだ。
婚約者を奪ったアバズレが、聖女だって?
「聖女が私の希望を打ち砕いた! ならば、叔父の為に、彼の名誉を取り戻したいと願っても構わないでしょう!?」
絶叫は聖女には聞こえない。
ひぃと神官達が悲鳴をあげる。誰も聖女の蛮行を止めなかったくせに。こうなるとどうして分からなかったのか。
こんな愚かな女が世の中にいると、思わなかったのか。
声が、かき消される。
「謝罪しろってんじゃないのよ。このクソ女! 叔父上様を護衛騎士に任命するっていうのがどうして難しいの? 婚約者を取ったんだから、責任をもちなさいよ!」
喉の奥が熱い。
「人を馬鹿にし切って、やり返されないと思ったの!? 今更聖女様聖女様と本気で褒めそやす人間がいるとでも?! 馬鹿げている。皆おべっかに決まっているでしょう? アンタなんか医療用魔石以下なんだから」
怒りで目の前が真っ赤に燃えていた。
「呪ってやる! 聖女メディアに呪いあれ! いつか私の提案を断ったことを後悔させてやる。婚約者を奪ったことを頭を擦り付けて謝罪させてやる!」
ラオネル嬢が強くロジャーの腕を掴む。げらげらと笑って涙を流す。
――叔父上様。私はただ、貴方に誇り高い騎士であって欲しかった。
凱旋パレードを群衆に紛れて見た。ファウストを見上げたあの幸せこそ、人生の絶頂だった。
魔法騎士の頂点だった叔父が、王宮の閑職に追いやられた。
家財は半分売らなくては爵位を保てなかった。使用人だって、もう数えるほどしかいない。
叔父が勲章を売って買ってくれたドレス。
叔父が頭を下げてかき集めた持参金。
叔父が剣を担保に雇った御者。
叔父が誇りを売り飛ばして、生きながらえたのがロジャーだった。
ロジャーは叔父のために、イサンと結婚したかった。彼がやっとの思いで繋げてくれた婚約だったのだ。
愛がなくても良かった。そこに一族の繁栄があるならロジャーは礎になってよかった。
それが、淫行を行った愚かな姪を育て上げた男になるのか。
兄の子供を立派に育て上げたと肩の荷が降りるはずだったのに、どうしてこんなことになったのか。
ロジャーはどうでも良かった。淫乱女と言われようと我慢できた。だが、ファウストの名誉だけは傷つけたくなかった。
彼の名誉を取り戻したかった。
彼の献身に報いる方法を、ロジャーは知らないのだ。
「いつか私の名前を聞いて震えるようになる。耳を塞いで目を抉りたくなるようになる。いつか、いつか、いつか!」
「……見るに耐えない」
ザブナックが目を伏せた。狂人を見るような、冷めた態度だった。
「聖女メディアに、呪いあれ!」