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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河篇 余話(二)
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関関雎鳩(二)

「すでに枕を交わされたわけではありますまい」


「枕?」


 曹植は初めてまともに顔を上げた。はっきり眉をしかめながら答える。


「おまえは俺を何だと思っているのだ」


子建(しけん)兄上です」


 何でもやらかしかねないお人です、というぐらいの意味を込めて曹彪(そうひょう)は答えた。


「父上といい、おまえといい……」


と曹植はじつに心外そうに頭を振った。

 ということはつまり、旅先から(ぎょう)に帰還した直後、崔琰(さいえん)の姪を娶ることを初めて父に願い出た際、父からも同じような疑問をぶつけられたということであろう。


 無理もない、と曹彪は思うが、かといって別に、曹植が曹操の諸子あるいは曹家の男子全体のなかで抜きん出て好色だとか荒淫(こういん)だとか見なされているわけではない。


 そうではなく、往々にして礼法を超越し自らを偽らずに生きる男だと―――そして、必要に迫られなければ自分から身を固めそうにない男だと、そういう目で見られているのである。


「崔氏のむすめとそういう関係になったことなどない。

 交わしたのは約言のみだ。関中(かんちゅう)討伐から帰還したら迎えに行くと、そう告げた」


「ならばよいのですが。

 もしも一線を越えた結果(・・)親迎(しんげい)の前に露呈しようものなら、崔季珪(きけい)どのもさすがに黙ってはおられますまい」


「万に一つもその恐れはない」


「兄上にしては自重されましたな」


「そうだろう」


 褒めるがいい、と言わんばかりに曹植がうなずく。

 しかし相手が庶人でも婢でもなく士人の家のむすめならば、媒氏(なこうど)を立てる前に同衾するどころか顔も合わせないのは、理の当然である。


 当のむすめと直接ことばを交わしたという事実をよくもまあ堂々と言明されたものだな、というのが曹彪の率直な感慨であった。

 しかし、それならばなおさら不明瞭な点が残ることになる。


 何かしらの責任をとるための婚姻でないのならば、曹植は本気でそのむすめに入れ込み、生涯をともにする伴侶として求婚したのだということになる。

 だが曹彪は、鄴に戻ってからの三兄に、そこまでの感情の高ぶりを見出したことはついぞなかった。


 何より、一女子のためにそれほど心を動かされたならば、三兄の心象の窓ともいえる詩賦においてその情動が吐露されてもおかしくない―――当の女子の名は出さなくとも、何かに仮託して感情を込める―――はずだが、旅先でも鄴に戻ってからも、そのような作品をものしたとは聞いたことがない。


 もう少し水を向けてみようか、と曹彪は思った。


「よほどお気に召されたのですね」


「そうだな」


「どのようなご令嬢です」


 曹植はそれほど考えるまでもなく、


「礼教を重んじる」


と答えた。

 つまり彼にとっては、そのむすめの最大の美点はそこにあるということだろう。


 曹彪は大いにはぐらかされた気がした。

 礼法をわきまえ己をよく律し軽はずみな言動をしない、というのは、士人が正妻に迎える女性の性質としてはたしかに歓迎すべきものである。


 自身の娯楽のために妾や家妓を納れるわけではないのだから、重要なのは内面の婦徳であって、「色」つまり姿かたちが魅力的かどうかは問題にすべきでない、という正論は曹彪もよく承知している。

 だが、まさか三兄ともあろう者がそのような理由で妻を選ぶものなのか、という思いに陥らざるを得ない。


 丞相府きっての威厳ある美丈夫と謳われる崔琰の姪であるから、容貌も容儀も群を抜くものがあろう、というぐらいの予測は曹彪にもついていた。

 だが、三兄の今しがたの淡々とした話しぶりから見ても、崔琰の姪とやらは、嫣然(えんぜん)として詩興をかきたてる、という意味で三兄の心を(とりこ)にしているわけではなさそうであった。


「それは、大変ご立派ですが……そういう方なら他家にもいそうなものですが」


「あのむすめは徹底しているのだ。姪とはいえ、季珪どののような御仁に手ずから育てられただけに」


「なるほど」


 曹彪は崔琰について個人的によく知っているわけではないが、曹操や曹丕にも遠慮をおぼえさせるほどの厳格な儒者であること、そしてかの大儒鄭玄(じょうげん)の門下生であったことは知っている。

 鄭玄といえばいわゆる三礼の考証においてとりわけ著名であり、その弟子たる者が礼法の遵守を己自身にも家人にも厳しく課しているのは想像に難くないことではあった。


「納得していないようだな」


「どこが特別なのですか」


 曹彪はより単刀直入に訊いた。いくら弟妹たちから広く親しまれている曹植が相手とはいえ、ここまで踏み込めるのは彼だけである。

 その直截ぶりに、曹植もさすがに口元を大きくしかめたが、弟のほうを見ずにぽつりと言った。


「俺のことを好いている」


「……へえ」


「信じておらんな」


「いや、信じます、信じますとも」


 そうはいいつつ、曹彪はたしかに信じがたい思いでいた。

 三兄という人間は、道行く女たちを振り返らせるほどの美男というわけではなくとも、母親譲りの整った顔立ちには人を惹きつける明朗さと知性の横溢する涼やかさとが具わっており、何より綺羅のような文辞を息するように紡ぎ出す天賦の才に恵まれている。

 たとえ丞相の子息にして列侯という際立った身分でなくとも、陶然として傾倒する女はきっと少なくないだろう。


 しかし、一語一語に重みがあり一挙手一投足が厳粛さに満ちたあの崔琰のもとで儒礼を重んずべく育てられたむすめが、よりにもよって奔放不羈(ふき)を極めたようなこの三兄に惚れ込むということがありうるだろうか。


 そもそも、家長である叔父が決めた相手でもない男に、自ら身を乗り出して惚れ込むようなむすめなのか。

 ほかならぬ三兄自身がいま、礼教を重んじるむすめだと称したではないか。


「いや、ですがそれはやはり―――兄上の思い込みではないのですか。

 あるいは、そのご令嬢が人違いをしておられるとか」


「失礼千万なやつだな、おまえは」


 そう返したものの、曹植は別に怒っているようにもみえない。


「俺も、まだ少し驚いている」


 そう付け加えると口を閉ざし、また簡牘に目を落とした。


(そのご令嬢からは、それほどの―――礼教も分別をも忘れたかのような、狂おしいほどの恋情を捧げられたというわけですか)


と曹彪は思ったが、さすがにそこまでは口にしなかった。

 自分にとって最も親しく愛すべき兄が、身元がしっかりしたどこかの令嬢に心から思いを寄せられて結婚に至るというのは、礼法上の手続きをいったん脇に置くならば、実にめでたい仕儀のようにも思える。


 とはいえ、曹彪にはまだどことなく心に懸かることがあった。

 むろん、自分が懸念してやらねばならぬような方面のことではない。だが、


(兄上は結局、決着をつけられたのだろうか)


といぶかしむ思いは消えなかった。


 見るともなく見ていると、兄は文章を一通り仕上げたようであった。

 筆を下ろせばたちどころに文章になるこの兄らしく、書き直しはほとんどないが、字の勢いがやや倉卒(そうそつ)に過ぎるので、草稿として書いたものらしい。

 机の脇にはたしかに、清書用であろう上質な紙が巻かれて置いてある。


「どなたかへの書簡、あるいは贈答詩ですか」


「どう思う」


 そう言って曹植は簡牘を曹彪のほうに押しやった。

 目を落とすと、長兄曹丕への礼状の草稿だった。

 いまは双方のうちどちらかが出征しているわけでもないので、たいていの用件は直接会って話せばよいわけだが、曹植としては文章という形で謝意を示したかったようだ。

 そこまでするだけあって、恭謙でありつつも高雅な辞が散りばめられた、ひときわ格調の高い文面になっている。


「清河から鄴へ戻り、父上に求婚を了解していただくまではよかったが、崔家へ、というか季珪どののもとに媒氏を送る前にやはり一段階を置く必要があるように思われたのだ。あまりに唐突な話であろうからな」


「それで、かつて季珪どのを補佐役としておられ、礼譲を以て交流された子桓兄上が根回しをしてくださったわけですか」


「兄上はあの御仁からいちどは手厳しく諫言を向けられたものの、その後は襟を正して毅然と改められたことで、信頼を勝ち取っておられるからな。ありがたかった」


 そのときのことを思い出してか曹植はしみじみ感じ入るような顔になったが、曹彪の目には、「なぜ俺がおまえのために」と苦々しげに眉をしかめながら渋々(しぶしぶ)といった体裁で頼みを引き受けた長兄のようすが、眼前にまざまざと浮かぶようであった。


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