(七)漢の命数
「まあともかく、曹司空という御仁に期待をいだいているのは俺も同じです。
この冀州に―――あるいは天下のあまねく地に目下誰よりも必要なのは、己の前途に迷いを持たず、有無を言わせぬ武力と知力とで秩序を打ち立てられる人間でしょうからな。
世論から推し量るかぎり、あのかたはまさに、そういう像に最も近い」
「そうだな。
が、司空はそればかりではない。許に帝を奉じている」
「帝、―――そうですねえ。
兄さんにはやはり、それが何より肝要ですか」
「わたしには、ではない。万民にとって同じ意味を持つはずだ。
逆臣らによって流浪を強いられ、ご幼少のみぎりから艱難辛苦を嘗められて久しい帝を、司空は先年正式に己の庇護下にお迎えした。つまりは、漢朝四百年の皇統を輔弼する意思を天下に宣したということだ。これが肝要でなければなんとする」
崔林は口をひらきかけたものの、思いをめぐらすようにまた閉じた。集落のいたるところで墻の修築をしているためか、大気には黄土の粉塵がふだんより多めに舞っている気がした。
崔琰の師事した鄭玄は、両漢四百年を通しても最高峰と称されることになる大儒学者である。いまより三年前の建安五年(二〇〇)に世を去っているが、その突出した学績により生前から官民の賞賛を集め、弟子は数千にのぼるといわれた。
彼が遺した膨大な著作は、大戦乱の時代にあっては珍しいほど速やかに中原各地へ、あるいは江南にまで伝播し、いまも私淑の徒を増やしている。崔林は鄭玄の舎門をくぐったことこそないものの、彼の講義録ともいうべき各種の経典注釈については崔琰から、あるいは崔家よりもやや富裕な近隣の豪族の家からしばしば借り受けて、くまなく目を通していた。
一経専修という世の趨勢に逆らうようにして五経の兼修をきわめ、どこまでも整合性を追及した注釈によって先人の誰よりも緻密な経書の体系化を成し遂げた鄭玄の思想はむろん一言で片付けられるものではないが、漢朝の統治に対する彼の懐疑的な姿勢は、その著作から少なからず読み取れるものだ、と崔林は思っていた。
すなわち、漢は決して、有史以来唯一の、永久無窮の天命を託された王朝ではない。いちどは再生を果たしたとはいえ、かつてこの中原に興亡したいくつもの王朝と同じように、いつかは革まりうる天命をいまはまだ保っているにすぎない―――少なくとも崔林は、鄭玄の注釈の行間に浮かび上がる思想をそう理解していた。
崔琰が鄭玄門下に在籍していたのは一年に満たないので、師から直接講義を授かる機会は限られていたことであろうが、たとえ高弟の口から受ける講釈にしても、鄭玄の思想の根幹を踏まえたものだったことはまちがいない。それだけに、北海からはるばる帰郷した従兄が漢朝の無謬について確信を持って語るとき、崔林はどことなく奇異な感を抱かざるを得ないのだった。
だが、と彼は一方でまた思う。季珪兄の信念は、師の説をひとり離れ、身で以て天下を見聞し、一個の士として培ってきたものだからこそ揺らぐことがない。あるいはそう見るべきかもしれなかった。
しばし瞑目してから、崔林はつぶやいた。
「―――まあ、そうですねえ」
「賛同できんようだな」
「というほどでもありませんが」
「そなたが疑義をいだくのは、司空の忠節に対してか」
「そうですねえ。
あるいはまあ、漢の世の永続が、どこまで必然といえるかどうか―――」
独白のような呟きを宙に投じかけたまま、崔林は結局しめくくらなかった。
それは、今までにも増して厳かな力を宿しはじめた従兄のまなざしを恐れたからというよりは、このくつろいだ散策の場で終わりの見えない議論を始めるのはつまらんことだ、というように見受けられた。