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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(五十六)睡蓮

「あの日、あのあと、―――嬢さまが奥へお戻りになり、平原侯さまのご家臣がたもご退出されたあと、平原侯さまは、わたしひとりだけを呼び戻されたのです」


「夜が更けてからわたしの(へや)を訪ねるにはどうゆけばいいか、とお尋ねになったのですか」


「まさか、―――そんなことを平然と尋ねられたら、いくら相手が丞相のご子息でも、宗主さまのところへ注進申し上げておりました」


「それもそうね」


 崔氏は少し笑った。


「では、何を求められたのです」


「この集落近郊の青年で、嬢さまが心に懸ける者のことをおまえは知っているかと、そうお尋ねになりました」


「まあ」


「わたしにとっては当初、あまりに唐突なご質問だったのですが、平原侯さまのお話を拝聴するうちに、―――嬢さまは、他でもなく平原侯さまのことを、とても好きになられたのだと思いました」


 そう、と崔氏は小さな声で言った。


「それなのになぜあのとき、平原侯さまの求婚をお受けにならなかったのかはよく分からなかったのですが、でもきっと、あのままお別れになったとしたら、嬢さまはずっとお悔やみになられるのではないかと、そう思ったのです。


 だから、“ご自身で改めてお尋ねになるのが最善かと存じます” と、嬢さまのご居室をお伝えいたしました。


 平原侯さまは翌日お発ちになられたので、結局意味がなかったのかと思いましたが、―――それでもやはり、大変勝手なことをいたしました。どうか、お許しください」


「それはもう、いいのです。むしろ、安堵しました」


「安堵、ですか」


「あなたがわたしの房の位置をあのかたにお伝えしたのは、あのかたがわたしに害をなされることはありえない、と分かっていたからではないのですか。

 つまり、あのかたのご人品を、あなたも信じていたということでしょう」


「それは、―――どうしてあんなふうに申し上げたのか、自分でもよく分かりません。

 そもそもわたしには、あのかたのお人柄を直接知る機会はほとんどありませんでした」


「それは、そうかもしれないけれど」


「ですが、嬢さまは平原侯さまをお好きなのだ、ということは疑いませんでした。

 それほどに好いたおかたのもとに、―――それも天下の丞相のご子息にして天子さま直々に列侯の爵位を賜ったおかたのもとに、多少順序を踏み違えても最後には正夫人として迎えられるのなら、嬢さまにはこれ以上ない幸せではないかと、そう思ったのです」


 崔氏は答えなかった。

 静寂のなかでふたりはしばらく歩みを進めた。

 塢門の付近で焚かれる篝火(かがりび)が、長く連なる厩舎の陰におぼろげに見えてきたころ、ありがとう、と崔氏は言った。


「わたしのことを考えてくれていたのね」


 王経(おうけい)は黙っていた。


「あなたの心遣いを、とてもうれしく思います。本当にうれしい」


 王経は何も言わず、うつむきがちに首を振った。


「―――でも、正直に言えば、あのかたがあのようなご身分でなければよかったのにと、いまでもしばしば考えることがあるのです」


「なぜです」


 少年は初めて崔氏のほうを振り仰いだ。

 大声ではなかったが、真摯に問いかける響きがあった。


「富貴と権勢を極めた天下第一の家に嫁いで、不幸になられることがあるでしょうか」


 そうね、とうなずいたまま、崔氏はしばらく歩きつづけた。

 手燭の明かりに浮かび上がる王経の麻服や(くつ)は、すでに成長期を迎えかけている少年のものとしては、ややきついように見受けられる。


 崔家とて豪族としてはずいぶん貧弱な一門ではあるが、自作農とはいえいわゆる単家(たんか)にすぎない王経母子の暮らしは、崔氏たちよりもさらにつましさを強いられるものである。


 崔林が王経の学業を後見しているように、いまや丞相の姻戚になろうとする崔氏や崔家の族人が彼らにさらなる援助の手を向けることはむろん可能であり、たやすいといってもよいが、単家にとって豪族から無償の施しを受けつづけるということは、その一門の隷属民に転落する恐れを常に孕むものである。

 母子はそれを望んではいないだろう。


 崔氏はかたわらを歩く彼から目を離し、自分の足元を見つめた。

 物心つくかつかぬかのうちに父親を失い、母親とふたりきりで河北の農村のきびしい暮らしを生きぬいてきたこの少年が、そして何年にもわたり文字や読書を手ずから教え、日々の家事を手伝ってくれてきた少年が、これほどに幼くして思いつめた顔でいるのを見るのはつらいことだった。

 そして、ふと思い当たった。


(平原侯さまは、この子を悪く思ってはおられぬはず)


 一対一で話をした際、この少年の子どもらしからぬ沈着ぶりや思慮深さに、曹植もおそらく気づいたことだろう。

 そのうえ彼は、崔氏の居室に関する下問の件で、いわば王経に借りを作ったわけである。


(結婚後にわたしから切にお願い申し上げれば、平原侯さまのお側仕えの見習いのような形で、この子を母君とともに侯邸で暮らせるように取り計らい、質の高い教育を与えるなど、何かと目をかけてくださるのでは。

 いずれ成人すれば、官吏としての俸禄も―――)


 そこまで思いかけて、崔氏は小さく首を振った。

 身辺の者たちに少しでも良かれという、人としての自然な願いこそが不正の道を容易にひらくのだと、まさにそのことを族父から戒められたばかりであった。


(この子は必ず、自分の力で頭角を現すことができる)


 崔氏は強いて、自らにそう言い聞かせた。

 淡い灯火のもとでも分かる王経の荒れた手に目をやり、そして前方に目を戻した。

 余寒ただよう夜の底に、ふたり分の足音だけが響いていた。


 門楼で焚かれる篝火の数が見分けられるようになってきたころ、そうね、と彼女はもういちどつぶやいた。


「衣食の不安がないというのは、もちろんとても大事なことだわ。

 でも、なればこそ、世に並びなき権門に生まれたかたがたは、衣食に欠ける苦しみよりもさらに解きがたく離れがたい憂いを背負われることもあるのだと―――平原侯さまのおそばにいるときに、そう感じることがありました」


「憂い、ですか。

 天子さまのお側近くにまで上がられるようなかたがたに、そんなことがあるものでしょうか」


「生まれ持ってのお立場に、あまりに多くのものが約束されていると、そういうことがあるのかもしれません。

 ご親族やご友人に対してさえ、ときには恐れや疑いをいだき、そしてご自身を韜晦(とうかい)なさらねばならなかったり」


「恐れ」


「ええ。わたしにもまだ、しかとは分からないけれど」


 そして口をつぐんでから、崔氏はためらいがちにつづけた。

 ほんの少しだけ、目元がまた火照りゆくのを感じた。


「それに、これはもっと卑近な、わたしひとりの思いだけれど」


「卑近?」


「―――あのかたのお家の権貴に加え、あのかたご自身があんなにも卓越した才能に恵まれ、深遠な学問をわがものとされ、天下の俊才のかたがたとの交遊をほしいままにできるようなお立場でなければ、もっとよかったのにと、そう思ってしまうことがたしかにあるのです」


「それは、平原侯さまのお心を占めるものが多すぎるから、ということですか」


 崔氏は声に出さずにうなずいた。

 やはり(さと)い子だ、と思うと同時に、いまさらながら顔がますます赤らんでいった。


「嬢さまが平原侯さまのお家柄に目がくらまれたなどとは、わたしは思いませんでしたが、―――ですが、世に比する者なきあのかたの文藻に、少なからずお心を奪われたのではないのですか」


「それはもちろん、あのかたのたぐいまれなる美質です。わたしもまことに、そう思います。

 でも、たとえあのかたがあれほどの天稟(てんぴん)を授かっておられずとも、貴門とは縁遠いお生まれだったとしても、あるいは文字さえ識らなかったとしても」


 やはり、抗えなかっただろう、と思う。

 心の赴くがままに生を欲し、常に惜しみなく情愛を発露し、他者の痛みをわがことのように悼むあのかたならば、わたしはやはり、なすすべもなく愛するようになっただろう。


 胸の淵の深いところで、蓮の花が黎明の眠りから覚めるように、その思いが形を成すのを崔氏は感じた。


 弟のように親しんできたこの少年にも父のように敬愛する叔父たちにも、この思いを余すところなく伝えられたら、とひそやかに思う一方で、もちろん、まちがっても人前で口にできることばでないことは分かっていた。


 王経はそれ以上問いただすことはしなかった。

 頭上に門楼の影がさしかかるまでの短い距離を、ふたりは黙ったまま歩き続けた。


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