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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(五十二)父母の命を待たずして

「季珪兄さんはたぶん、これまでおまえに話してはおられんと思うが」


 広い背中をなすすべもなく見送る姪に語るともなく、崔林はぽつりと言った。

 崔氏は振り返り、居住まいを正した。


「曹家からの媒氏(なこうど)を受け入れるまで、いろいろと紆余曲折があった。

 兄さんは―――おまえの叔父上は、それほど安易に(だく)と言ったわけじゃない」


「そう、なのですか」


「平原侯と直接の面識をもつ人々―――丞相府内部の人間はもちろん、あのかたの属官のなかで兄さんと昔から馴染みのある邢子昻(けいしこう)邢顒(けいぎょう))どのと何度も書簡を交わして、懸念の材料を片っ端から問いただしたんだそうだ」


「懸念……」


「まあ、平原侯というおひとは、兄さんからみればすべてが不安の種だろうが、とりわけ酒だ」


 やはり、と言う代わりに、崔氏は小さくうなずいた。


「飲食の礼節は嘉礼(かれい)の基本でございますから、叔父上もさぞかし―――」


「そうじゃない。もっと単純なことだ。

 世に噂されるとおり、平原侯に酒乱の気があるとしたら―――結婚後のおまえが日に夜に虐待されやしないかと、案じておられたのはそればかりだ」


「あ……」


「仮に虐待が起こってしまっても、あちらが丞相の家だからには、婿どのへの懲罰や離婚をこちらから要求することなんぞ、そう簡単にできんだろう。


 結婚は力関係が釣り合う家柄同士でおこなうべきなのは、ひとつにはそういうわけだわな。


 “父母の(めい)媒妁(なこうど)の言を待たずして、穴隙(あな)(うが)ち相(うかが)い、(かき)()えて相従わば、則ち父母・国人 皆な之を賤しまん*”。

 叔父上からこう習ったのは、おぼえてるな」


「―――はい」


 崔氏は過ちを詫びるかのように、深くこうべを垂れた。

 族父がこれから言わんことを予測したがためであった。

 

 『孟子』にあるこの文言は、君子の仕官とはいかにあるべきかを論じる文脈のなかで、孟子が挙げた比喩のひとつである。

 とはいえここだけを抜粋するならば、若い男女が父母の許しや媒氏(なこうど)の仲立ちを得ないうちに、家の壁に穴を開けてお互いをのぞき見するや恋心を燃え立たせ、情熱のままに垣根を乗り越えて逢い引きする―――そういった不品行を難じた一文ということになる。


「一夜の夢で終わるならともかく、結婚は数十年つづくからな。

 “牆を踰えて相従”ったときの、互いに傾けた思慕や情念がいつまでも持続すればいいが、往々にしてそうはならん。

 お好みの姫妾(きしょう)を身辺に置こうと思えばいくらでも置けるようないいとこの御曹司なら、なおのことだ。


 いまの時代も孟子の頃も、親心なるものが―――とくにむすめを持つ親の心が大して変わらんのは、婿本人やその両親、その家門を、自らよく吟味しぬいたうえで定めた婚約でなくては、長い目でみれば不安でしかたがない、そういうことだ」


 はい、と崔氏は小さくうなずいた。


 自分と曹植が“父母の命を待たずして”約束を交わしたのを問題視されることは分かっていたが、族父が指摘したのはそれだけではなかった。

 とくに女方の家は、極力自分たちと同程度か、自分たちより少しだけ低い家柄の婿を選んだほうが、むすめのために安心できる―――それは間違いないことであった。


 もとより世のむすめたちの大半は、夫を天として仕えよと父母からよく言い聞かされたうえで他家へ嫁ぐわけであるから、妻方の家格が夫方より若干高いからといって―――公主のような特殊な身の上でもないかぎり―――妻が夫に暴力を働くという事例はめったに起こらない。しかし、男女が逆の場合はそうではない。


 夫は夫であるというだけで妻より優位の存在であり、そのうえ家柄や権勢という点でも妻方のそれに勝っているとすれば、妻への情愛が衰えたときにどれほどむごい扱いをしても驚きではないし、夫から妻へのしつけ(・・・)は周囲からも容認されるものだから、妻の実家側から婿の非道を訴え出ることもふつうは難しい。


「―――では、季珪叔父上は、平原侯さまはそのようなかたではないと、見定めてくださったのですね。

 邢子昻さまのご返答が、平原侯さまに好意的なものだったからでしょうか」


「子昻どのはまあ、あのとおりたいそう礼法に厳格なおひとだから、平原侯には言いたいことは山ほどおありのようだが―――というか、ずいぶん手厳しい諫言(かんげん)を毎日のように重ねておられるようだが、季珪兄さんのいちばんの懸念に対しては、きっぱり否定なさったそうだ。


 飲酒量はたしかに芳しくないが―――平原侯は素面(しらふ)でも酩酊(めいてい)しておられようとも、残忍さとは無縁のかただと。

 それを信じて、兄さんはようやく婚約を受け入れる気になった」


「まあ……」


「厳密にいうと、少し違うな。それに加えて、五官中郎将だ」


「五官将さま、ですか」


「さすがにご本人が許都(きょと)へおいでになったわけじゃないが、季珪兄さんのもとへ長い書簡をよこしてこられて、色々と擁護なさったんだ。平原侯のことをな。

 文字通りの愚弟だが、そればかりでもないと」


「そのおたよりもまた、季珪叔父上のお心を動かしたと、そういうことなのですね。

 五官将さまならではの、情意こまやかな美文を尽くしておられたのでしょうか」


「いや、文章自体というよりも、あのかたが弟君を擁護されたという、その事実が大事なんだろう」


「それは―――」


「ご兄弟の間柄が、世間でささやかれるような緊張に満ちたもんじゃないと分かって―――世のありふれた兄弟のように、肝心なときに支え合う関係だと分かって、兄さんも安堵したんだろう。


 嫁いだ女の人生は、つまるところ夫の人生に左右されるからな。

 もし平原侯が兄君(あにぎみ)五官将の不興を買っておられるようなら、五官将が丞相の跡目を継がれた暁には、おまえたちの結婚生活も安寧なものではありえんだろう。

 季珪兄さんの心に懸かっていたのは何より、飲酒癖とそのこと(・・・・)だ」


「―――そうだったのですか」


「まあ少なくとも、酒乱の疑いが解消されない限りは、兄さんは婚約を断るつもりだった。

 というか、正面から断ればさすがにうち全体にも累が及ぶから、丞相の側から媒氏を引き下げざるをえないようにするつもりだった」


「つまり―――」


「丞相府を辞めて、それ以降はいかなる形の出仕も諦めることだ」


 崔氏は思わず瞠目(どうもく)した。崔林は淡々とつづけた。


「兄さんがまったくの布衣(ほい)の身に―――平民になってしまえば、いくら旧例にこだわりの薄い曹丞相とて、さすがにそういう人間をご愛息の実質的な岳父(がくふ)となさるわけにはいくまいよ。


 正式に結婚してしまえば、婿どのは実の父母に準じる礼を岳父母に捧げ、常に身を屈さねばならんわけだからな。


 そりゃ、汝南(じょなん)(えん)氏だとかのように高位高官や有爵者をすでに何人も出している一門なら、岳父本人が無官だとしても婿の家の面目は保たれるだろうが、うちはそうじゃないからな」


「―――はい」


 崔氏はふたたびうなずいた。

 彼女が知る限り、崔琰と崔林より上の世代で漢朝に出仕した清河崔氏の族人は―――中央はもちろん、地方官府ですらろくにいない。


 清河崔氏の始祖とされる崔業(さいぎょう)なる人物は、秦の時代に東莱侯(とうらいこう)に封じられた父親の爵位を引き継ぎ、前漢初期に清河東武城の地に居を定めたというが、その爵位がいついかなる理由で漢朝により削られたのか、それさえも記録が残っていない。

 ただの言い伝えに過ぎないのではないか、ということは、崔氏ら族人もなんとなく了解するところであった。


「季珪叔父上がそこまでのお覚悟を固めておられたこと、まったく存じませんでした」


「俺だって、兄さんがそこまで言いきるとは思ってなかった。

 まあ、兄さんが辞めるなら、俺ひとりが丞相府に残ったところでつまらんから、同時に足を洗うつもりでいたが。宗主もお怒りにはならんだろう」


「まあ―――」


「俺のことはいいが、とにかく兄さんは―――おまえの叔父上は、それぐらいおまえの身を案じておられた。だから、ああいう受け答えになるんだ」


 崔氏はゆっくりと目を伏せた。

 胸中にあふれる気持ちを、うまくことばにすることができなかった。






「それにしても、兄さんの番だったんだがな」


 崔林は盤上の戦局に目を落とすと、やれやれ、とひとりごちた。

 彼のほうに視線を上げ、崔氏は小さく笑った。

 その弾みに目の奥がふと痛くなり、唇を堅く閉じなければならなかった。


(わたしはこの家で、叔父上がたのお手元で、本当に大切に慈しまれてきたのだ)


 分かっていたつもりだったことを、いま初めて揺るぎない事実として気づかされた思いだった。






*『孟子』滕文公下

丈夫生而願為之有室、女子生而願為之有家。父母之心、人皆有之。不待父母之命・媒妁之言、鑽穴隙相窺、踰牆相從、則父母・國人皆賤之。古之人未嘗不欲仕也、又惡不由其道。不由其道而往者、與鑽穴隙之類也。


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