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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(四十五)成約

「唐突に、悪かった」


 いいえ、と崔氏は顔を伏せて小さな声で答えた。


 いやではありませんでした、と伝えたかったが、そんなことを言えば次の瞬間には身体が火柱となってしまいそうで、とても口にはできなかった。

 まして、もっと長く触れられていたかった、という思いを知られてしまったら、五臓がばらばらになってしまうと思った。ひたすら身を固くするしかなかった。


 彼女が顔を上げられないうちに、いつのまにか身体は抱擁のなかにあった。

 呟くような声が耳元で聞こえてくる。


「このまま(ぎょう)に連れて帰りたい」


 崔氏のもうこれ以上熱くなることはあるまいと思っていた顔が、先ほどにもまして熱くなった。

 だが、と曹植は言った。


「だが、子昻(しこう)も言っていたとおり、手順というものは大事だ。

 俺が―――我が家がそなたとそなたの家門を尊重していることを示すためにも、手順は大事にしたい」


「―――うれしいです」


「とにかく、俺が言いたいのは、―――そなたのことは大切にする」


 曹植自身言い慣れないことを言っているという自覚があるのか、どこかぎこちない、はにかむような沈黙が降り立った。


 彼と視線を交わすには心が千々に乱れすぎて、崔氏はまなざしを伏せていた。

 だがやはり、今ここで言わなければいけないことがあった。

 彼の抱擁をそっと解き、勇気を持って目を合わせた。


「わたくしの、家のことも」


「家?」


「家のことも、家人のことも、大切にしてくださいますか」


「それは、むろん」


贔屓(ひいき)をして取り立てていただきたいという意味ではないのです。

 資質と能力に不相応な地位を得る者はいずれ行き詰まります。わたくしは、肉親の者たちにそういう待遇を望んでいるわけではありません。


 大切にしていただきたいというのは、平原侯さまの―――曹丞相のご一門と我が家が姻族になることで、あるいはなった後に、我が家がいわれなき誹謗などにさらされぬよう、守っていただきたいのです。


 たとえ平原侯さまはお気になさらなくとも、我が家は冀州(きしゅう)の寒門に過ぎぬことを―――これまで貴家にゆかりもない家であることを、わたくしは気にしております。

 叔父たちが丞相府に出仕していると申しましても、家門自体にはみるべきものはございません。そのうえ、あなたさまは―――数多(あまた)おられる丞相のご子息のなかでも嫡出であるうえに、お父上からのご寵愛深い御身でいらっしゃいます。


 他家のかたがたには―――とりわけ、貴家の累代の姻族のかたがたには、不可解な婚姻だと思われてしまうかもしれないと危惧いたします。

 思われるだけならよいのですが、場合によっては激しい向かい風になることもありましょう。


 もし、そのような事態が起こったときに、我が家を、我が族人を、守ってくださいますか。お尋ねしたいのはそのことです」


「もちろん」


 曹植は深くうなずいた。


「約束する。この婚姻によって貴家が不利益をこうむらないように、手を尽くす。

 俺が自分の意志で求婚する以上、責任は果たす」


 彼の声からはふだんの軽やかさは消えていた。真摯な一諾だった。

 崔氏は息を詰めたように彼をみていた。

 我が一族が危険にさらされるような事態が実際に起こったとき、曹植ひとりの尽力だけで庇いきれるかどうかは、誰にも分からない。


 けれど、彼の誓い自体は偽らざるものだと信じられた。

 彼のことばには、それだけの重みがあった。

 そして、姻族としての清河崔氏一門を彼が重視していることは、崔氏も承知していた。

 彼が欲しているのは我が身ひとりではない(・・・・・・・・・・)ことは、昨日の昼間、この房で初めて求婚されたそのときに、既に告げられている。


 彼は、自分を祭り上げたりしない寡欲な姻族がほしいのだ。

 丞相の子息として―――愛児ではありながら嫡長子ではない者として、そのような一族を姻戚に選ぶ義務があると、彼はたしかにそう言っていた。

 そのことを思うと、崔氏は少し切なくなる。


(もし我が家が権勢に貪婪(どんらん)な一族であったなら、わたしがわたしのままでも、平原侯さまは、求めてはくださらなかったかもしれない)


 わたしは、(しん)夫人ではないから。

 このかたとわたしを結びつけているのは、すべての禁忌を忘れさせるような、理性を放棄させるような、天が定めるところの恋ではないから。


(―――だけれど)


 だけれど、平原侯さまは、我が家を寡欲な一族とみなし、この家風を(よみ)してくださっている。

 ならば、姻戚としての我が一族を失わないためにも、ことがあれば必ず、最大限に手を尽くしてくださるはずだ。

 姻族としての我が家を失わないためなら、―――あるいは、妻としてのわたしを、失わないためなら。


 信じよう、と思った。


「ありがとうございます」


 崔氏はふたたび目を伏せた。思いが伝わったことに安堵したのか、曹植の表情もやわらいだ。


「信じてもらえて、よかった。

 ―――それでだ。もうひとつ、はっきりさせておかねばならぬことがある」


「もうひとつ、ですか」


「昨夜、言いかけて言わなかったことだが、―――季珪(きけい)どのから、そなたの叔父上から、西方遠征のことは聞いているか」


 思いがけない問いに、崔氏は首を横に振る。遠征ということばが出てきたことに理由のない怯えを感じる。

 ことばそれ自体にではなく、曹植の運命がそのことばと結び付けられているかもしれないことが怖かった。

 だが彼は、努めて平淡な調子でつづけた。


「つい先日、我が父が司隷校尉(しれいこうい)鍾元常(しょうげんじょう)鍾繇(しょうよう))どのらに、漢中に勢力を張る五斗(ごと)米道(べいどう)の教主討伐を命じられた。この計画自体はかねてから練られていたものだ。


 だが、関中の連中、つまり洛陽から漢中にさしかかる途上に割拠する諸軍閥が、われわれの今回の討伐行動を怪しんでいるらしい。


 関中は西方経略の要だ。もし彼らが連合して抵抗を示すようならば、父上もとうとうご自分で鎮圧に乗り出され、俺も従軍することになるかと思う。かねてから願い出ていたからな」


「―――まあ」


「そう不安げな顔をすることもない。行程から言っても関中軍閥の団結の脆さから言っても、戦自体はさほど長引くとは思われぬ。

 おそらく年内には片がつく。よほどのことがなければ、無事に鄴へ戻れるはずだ」


「そう、でしょうか」


「だが、これまでの慣行上、曹家から従軍する者は妻子を伴うことになっている。

 出征前にそなたを娶ると、不自由と危険の多い軍中に身を置かせることになる」


「それでも、かまいません」


 崔氏自身にも思いがけないほど、迷いのない声が出た。

 直後に恥ずかしくなり、顔を伏せて唇を噛んだ。曹植は少し笑った。


「それは心強いが、俺はできれば、新婚の日々は落ち着いた暮らしのなかで始めたい。

 それに、―――そなたを今日明日にでも娶りたいという思いは本当だが、十分な猶予が欲しいとも思う。分裂したことを言うようだが」


「猶予、ですか」


 顔を伏せたまま、崔氏はことばをなぞった。

 彼にとって大切な何かと訣別するために、時間が必要だということなのだろうか。


(―――それは、つまり)


 膨れ上がった不安に圧されるようにして、唇がひらきかけた。

 だが、かろうじて自制し、それ以上は尋ねるまいと思った。


「そうだ、猶予だ。さしあたりは納采(のうさい)だけ、出征前に済ませるということでよかろうか」


「それは、―――身に余るお心遣いではございますが、婚約のような大事は、わたくしたちだけで決めるようなことではございません」


「むろんそうだ。が、最初に、そなたの意思を知りたい」


「けれど」


「迷うか」


「――――――いいえ」


「よかった」


 ふたたび、強い力で抱きしめられた。


「しばし待たせるが、必ず迎えに来る。我が妻となれ」


 崔氏は静かに息を呑んだ。すでに灼々と火照っていた両の頬が、炉に触れたように熱くなる。

 そして唇をおずおずとひらきかけた、そのときだった。


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