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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
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(五)袁氏内紛

「それでそなたは」


 崔琰(さいえん)がぽつりと口をひらいた。


伯女はくじょに何を学ばせるか論じるためにわたしを連れ出したわけではあるまい」


「できれば、そのほうがよかったんですがね。

 ―――黎陽(れいよう)に、曹司空(そうしくう)が軍を配したそうですよ。袁青州(袁譚(えんたん))の要請を受けたということです」


「司空、―――曹孟徳(もうとく)が」


 つい昨年まで幕僚として仕えていた大将軍袁紹(えんしょう)の、その死因をつくった男の(あざな)を崔琰は呟いた。


 袁紹とは「四世三公」とたたえられた天下屈指の名族汝南(じょなん)袁氏の裔であり、冀州(きしゅう)を根拠地とする大軍閥の長となった男である。


 北海(ほっかい)から清河(せいが)へ帰還したのちも学問に打ち込み、荒みきった世相のなかで儒礼を堅く奉じつづけた崔琰は、やがて数年のうちに崔氏宗族内のみならず郷里の、県の、ひいては郡国や州の規模で名が知られるようになり、ついには(ぼく)(州の行政権と軍政権をもつ長官)を兼務して冀州に君臨する大将軍袁紹に辟召され、その軍府の幕僚となったのだった。


 光武帝(こうぶてい)による再興以来二百年近い歳月を経てきた漢朝は、外戚(がいせき)宦官(かんがん)勢力の跋扈(ばっこ)によりすでに久しく民の望を失いつつあったが、今からおよそ二十年前の黄巾(こうきん)軍蜂起を契機として、その統制力をいよいよ決定的に手放すことになった。


 中原各地には賊軍討伐を名目とした諸軍閥が割拠し、その大兵乱のなかで頭角を現したのが名族中の名族たる袁紹であり、彼の幼馴染でありながら対照的な出自―――宦官(かんがん)を養祖父に持つ曹操、字孟徳という男であった。


 そして世に無秩序が進行するなか、幼くして擁立されて以来権臣たちに身柄を奪われつづけてきた少年天子に庇護と奉戴の手を差し伸べたのもまた、ほかならぬ曹操であった。


 袁紹を初めとする各地の軍閥首領が帝に対する態度を決めかねている一方で、洛陽から自らの本拠地である(きょ)に迎え奉り、漢朝の正統なる輔弼(ほひつ)の臣となることを内外に示したのである。


 元号が建安(けんあん)と改められたその年、曹操は許において三公のひとつである司空に任命された。崔琰が清河に帰郷したのと同じ、今から七年前のことである。

 以来、曹操と袁紹の対立はいよいよ抜き差しならぬ様相を帯び始めた。


 そしていまから三年前のちょうど同じ月、中原特有の乾いた空気がいよいよ乾ききり寒さが厳しさを増し始めた十月に、袁紹軍は官渡(かんと)で大敗した。対峙する曹操軍を数の上で圧倒していたにもかかわらず、穀物の輸送車をことごとく焼き払われ、ついに総崩れへと追い込まれたのだった。


 官渡敗戦の報を受けて冀州各地の城や邑は次々と曹操に投降し、袁紹は憤りと憂いを募らせて病没した。それが昨年五月のことである。


 袁紹から冀州名士のひとりとして辟召(へきしょう)された崔琰は、官渡戦の当時騎都尉(きとい)の職にあったものの本隊に従軍しておらず、冀州の中心都市にして袁家の本拠地たる(ぎょう)の守備を任された幕僚のひとりだった。


 袁紹没後は本来ならその後継者にひきつづき仕えるのが順当であったが、彼は継嗣(けいし)を明確に指名しておらず、崔琰を始め袁大将軍府の幕僚は重い選択を迫られることになった。


 すなわち、慣例からいえば当然跡目を継ぐべき長男の袁譚と、生前の父親から最も愛され実質的に冀州の地盤を引き継いだ三男袁尚(えんしょう)のいずれかである。


 父親の喪中にもかかわらず露骨な抗争を演じ始めた兄弟は、父の幕僚たちのなかでもその品格と直言によってとりわけ重きをなしていた崔琰を争うようにして自らの陣営に引き入れたがったものの、崔琰はいずれにも附かなかった。


 そして職を辞し郷里の清河東武城(とうぶじょう)に戻って門を閉ざそうとしたところ、立腹した袁兄弟により捕縛され投獄の憂き目を見たのだった。


 親族一同はもとより、同僚だった陳琳(ちんりん)らの懸命な請願によって崔琰は比較的短期で釈放され、ふたたび郷里に戻って静居を営むことが許されたものの、かといって冀州の情勢が平穏を見たわけではない。


 今年に入り、袁兄弟の対立はいよいよ決定的なものとなった。二月にそろって曹操軍に敗北してからまもなく、兄弟はついにそれぞれの軍隊を動かし、互いを攻撃し始めたのである。目を覆うような骨肉の争いの舞台となったのがまたも冀州、そして東隣の青州(せいしゅう)であり、とりわけ清河を含む冀州東南部一帯だった。


 袁譚が拠点とし袁尚が猛攻をかけた平原(へいげん)は、清河にすぐ隣接する郡である。司空曹操のこのたびの黎陽進軍とは、袁尚の攻撃に耐えかねた袁譚からの支援要請を承諾して、という形をとったことになる。

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