(三十七)告白
「―――わたくしは憂死など、決して」
短い沈黙の後、崔氏はかろうじて言葉をつむぎだした。
目は上げられないままだった。
曹植は黙って彼女を見ている。
「季珪叔父上が自ら定めてくださる殿方ならば、何の憂いを抱いて嫁ぐことがありましょうか。
わたくしは良い妻になります」
いちど口に出すと、まるでかねてから用意していた草稿のように、ことばが滔々と流れ出てきた。
「夫となるかたとそのご両親に朝夕心を込めてお仕えし、ご不満のないように努め励みます。
求められることにはすべてお応えできるように尽力いたします。そのかたが望まれるだけ子どもを生みます。子どもたちには良き母親となり、日々の訓育に務め、必ず―――」
「なぜ泣いている」
崔氏は顔を深く伏せた。我知らず手で口を覆った。
のどの奥がかすれている。
どうしてこれほど聞き苦しい声になるのか、自分でも分からなかった。
曹植の指が目元に触れるのが分かった。
このかたは間違ったことばかりなさる、と思った。
だが振り払うことはできなかった。
「そんなにも好きなのか」
「―――好きです。お慕い申し上げております」
嗚咽の合間をくぐるようにして、何の逡巡もなしにそのことばが転がり出た。
そしてほとんど意識もせずに、濡れた瞳を曹植に向けた。
問いを発した本人は指を離し、面食らったように瞬きをした。
心なしか目元を赤らめながら、珍しくことばにつまっている。
「いや、―――いや、別に何も、誤解したわけではない。
ただ、いまのは、つい、―――そなたはそなたの叔父上と同じで、時と場によっては目の力が射貫くように強くなるからな。人の心に与える印象も強いのだ」
「そうなのですか」
無感動な思いで崔氏は応じた。
目に力があろうとなかろうと、彼の想い人に代わることはできない。
「俺はたぶん、手伝ってやれると思うのだが」
「何をでございますか」
「機会を設けることだ。“その男”に何かしら伝えるための。
この近隣に居を構えているのだろう」
「―――ええ」
「こう言ってはなんだが、清河に大姓というほどの大姓があるとは聞かない。
どれほどの家柄であろうと、交渉のための敷居はそれほど高くないはずだ」
「はい、いえ……じつはそのかたの本貫(本籍地)は清河ではなく、郡を異にして―――州も異にしていらっしゃるのです」
「なんと、遠方からの避難民か。そうなると話が違ってくる。あまり強く当たっては気の毒だな」
「いえ、そうではなく―――何と申しますか、とても恵まれているお立場です」
「戦火から逃れてきたわけでもないのに、こんな何もない田舎に、いや悪かった、のどかな土地に滞在しているのか。
世のなか閑人がいるものだな」
「……そうですね……」
ほかに言いようがないので、崔氏はとりあえず相槌を打った。
「怒ったか。田舎と呼んで悪かった」
「いえ、それは気にしておりません。田舎ですので」
「ならいいが。俺はこの土地が好きだ。
この十数日間、静かに過ごさせてくれた」
「それなら、ようございました」
好ましい思い出だけを持って彼がこの土地を去るのならば、崔氏にとっても喜ばしいこと、心に願うことであった。
「それに、何もなくはない。俺が求婚したむすめがいる。それだけで特別だ」
今度は彼女の目元が、瞬く間に朱に染まった。
しかし曹植は、単に事実を述べたという顔で、変わらない口調でつづけた。
「ともあれ、そなたは女子の身であれば、いくら俺でも他家へ連れ出すことはやはり難しいが、その男をこの邸に、あるいは許都でそなたが住まう邸のほうに赴かせることぐらいはできる」
「それは、ご権威の濫用というものです」
「濫用せねば封爵された甲斐がないではないか」
崔氏は思わず小さく破顔した。その拍子に、涙がまたひとすじ流れ落ちた。
「誠に、かたじけなく存じあげます。
ですが、“そのかた”に、これ以上近づくことが叶えられたとしても、だめなのです」
「なぜだ。自在に逃げ出すとでもいうのか。雲に乗る神仙でもあるまいに」
「ええ。神仙ではありません。―――でも、だめなのです」
「なぜだ」
「昼間も申し上げましたように、天人のようなかたですから」
「俺に分かるように言ってくれ」
「―――そのお人柄は天衣無縫で」
「ふむ」
「そのご才質は天与のもので、そのお心は天女に捧げられているからです。
おそらくは、天帝に愛でられる星のもとにお生まれになったのです。地上の人間が望める相手ではありません」
「そんな男がいるものか」
「たしかにいるのです」
「欠点ぐらいあるだろう」
「山のようにお持ちです」
「ぜひ聞きたい」
「―――酒も婦人も遊戯もお好きで、生活全般に規律がないかたなのです。
人前で衣冠を正すこともなさらない。手がかかる人間だというご自覚がない。
いい年をして寂しいのがお嫌いで、大勢の人に囲まれるのがお好きで、誰にでも手放しの好意をお見せになる。
お心は天女に捧げておられるのに、愛してもいないむすめに戯れては、関心があるかのように振る舞われる」
「なんだ、ろくでもない男ではないか」
「そんな気がしてまいりました」
「いよいよ俺が召し出さねばならぬような気になってきたな。
いちど殴っておいてやろう」
曹植は唐突にことばを切り、瞬きを忘れたように静止した。
そしてふっと両腕を伸ばし、懐中に崔氏の身を抱き寄せた。
収まりかけているように見えた涙が、ふたたび静かに流れ始め、細い肩を震わせているのだった。
「申し訳ございません」
消え入りそうな声で崔氏が言う。
「自分がこんなにも弱いとは、思っておりませんでした」
「弱くはあるまい」
「弱いのです」
なぜならこうして、この腕を振り払えずにいる。
間違ったことだとわかっていながら、そのままでいる。
けれどことばにはできなかった。
「何か、俺にできることはないか」
曹植がゆっくりと言った。
「明日からはもう他人だとしても、この地でこうして出逢ったのは、天の采配のひとつには違いない。
できるだけのことを、してやりたい。だから会いに来た」
お優しいかただ、と崔氏は思った。だからこそ、残酷なかただ、とも思った。
そのとき唐突に、何者かに呼ばれたかのような気がした。
崔氏ははっと顔を上げた。
曹植の腕から急いで離れ、左右を見渡す。




