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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(三十四)其れ妻を取るに

 崔氏の視界が男の体躯で暗くなった。

 逆光のため、彼の表情はよく見えない。


 抵抗か哀願か、どのように反応すべきか分からなかった。

 だが、恐怖というほどの恐怖は沸かなかった。


「肝の据わったむすめだ」


「据わってはおりません」


「ならば顔や声に出すべきだ。このままでは純潔を失うかもしれんぞ」


「あなたさまは、そのようなことはなさらぬかと」


「なぜそう思う」


「わたくしを同志だというおことばが嘘ではないなら」


 ひとつ間を置いてから曹植はいくらか顔を離し、崔氏の視界をやや明るくした。

 口にしてはならない寂しさが、彼女の目の奥をふと曇らせた。


「なぜ俺がこんなことをするのか分かるか」


「―――分かりません」


「そなたに考え直させるためだ。

 俺の妻にならぬならならぬで仕方がないが、それでもそなたはいずれ必ず、季珪(きけい)どのかあるいは父兄に準じるひとびとの計らいで誰かの妻になり、(ねや)をともにすることになる。


 男のものになるとはこういうことだ。それを実感させようと思った。

 ほかに好きな男がいながら、そのような営みに耐えられるか。


 俺のもとに来れば、その男にみさおを立てられる」


 崔氏はわずかに首を振った。

 彼が真摯なことばを重ねて説得を試みてくれている、その事実に、心の揺れる自分が悲しかった。


「お申し出は、まことにありがたく存じます」


 見下ろす顔を静かに仰ぎ見ながら、答えた。


「ですが、婚礼は夫婦だけのものではありません。父母にも祖霊にも報告すべき神聖なものです。

 周囲を欺くためだけにおこなっていいはずがありません」


 曹植は同じ姿勢のまま、崔氏の目をじっと覗き込んだ。

 

 貴人に対する礼に外れると思ったが、彼女も目をそらさずに見つめ返した。

 

 己のなかの信念を試されているのだと思った。






「―――惜しいな」

 

 曹植がようやく口をひらいた。


「“()に其れ妻を(めと)るに、必ずしも斉の姜なるをせんや”(妻を娶るのに、佳人と名高い斉国の公女でなくともよいではないか*)とはいうが、斉姜(せいきょう)をあきらめるのはやはり惜しいものだな。


 なるほどそなたは崔季珪どのの姪御だ。打算や軽挙とは遠い。


 そなたの心がその男にとらわれているというのも惜しいが、そなたがいずれ誰とも知れぬ男に心を殺したまま嫁ぐのだと思うと、いっそう惜しくなってきた」


「―――分に過ぎたおことばです」


「だがこうなると、仮に娶ることができたとしても、すぐに手を触れてしまいそうだ。

 我が家の祖霊に対してはそれでいいが、そなたに対しては約束を破ることになる。あきらめるか」


 手を触れる、という語に崔氏が頬を紅潮させる前に、曹植はあっさりと上体を起こし、片膝で立ち上がりかけた。

 かすかに起こった風が、彼女の鬢をふわりと揺らした。


 そのとき、戸の開け放たれる音がした。


 あの路上で別れて以来久方ぶりに顔を合わせる邢顒(けいぎょう)劉楨(りゅうてい)、そのほか二、三の士人とおぼしき男たちと、彼らの案内役としてここまで導いてきたらしい王経(おうけい)が薄暗い廊下に佇んでいた。


 大人たちは残らず目を丸くし、申し合わせたように口をつぐんでいた。

 王経も驚いていることに変わりはなかったが、その目の奥には子どもらしからぬ沈鬱な色が浮かんでいた。

 崔氏は戸口のほうをいよいよ見られなくなり、顔をうつむけた。


「みな息災なのは何よりだが、いまここへ呼び寄せたおぼえはない」


 最初に沈黙を破ったのは、片膝立ちのままの曹植だった。

 立腹の声ではなかったが、さりとて寛恕の響きもなかった。


「こちらでのご滞在が十日を過ぎましたので、さすがに我々より言上する必要があると思い、伺候させていただきました」


 家臣団の代表を自ら担うように、邢顒が恭謙に進み出た。


「その子どもにはこの離れまで通してもらったかもしれんが、入室の伺いくらいは在室者に立てたらどうだ」


「こちらへ参りました当初は、(しつ)のご演奏のさなかだったので、曲の終わりまでお待ち申し上げようということになったのです。

 だが曲は終わらぬまま唐突に途絶え、その後は密語のようなおふたりの声が聞こえてくるばかりだったので、やはりたしかめようということで衆意が一致いたしました」


「たしかめられて満足したか」


「侯よ」


「何だ」


「季珪どののご親族をそこまでお気に召されたというならば、あとは父君が許すか許さぬかをお決めになることで、もはやわれわれが口を挟む段ではございませぬ。


 が、ものごとには()むべき手順というものがある。まして婚姻のようなご両家全体にとっての一大事となればなおのことです。


 まさか父君の重臣のお身内を、ご正室ではなく妾同様に略式でお()れになるおつもりではございますまい」


「むろんだ」


「ならばただいまより即刻、そちらのご令嬢とは正しい距離を保たれますよう」


「大丈夫だ。事は破れた」


「破れた?」


「振られたのだ」


 邢顒もほかの男たちも、やや虚をつかれたような顔になった。

 少しの空白を置いたあとで、邢顒が静かな声で言った。


「ご令嬢の側が拒まれるならば、侯はそれ以上執着されるおつもりはないと、そう解してよろしいですか」


「ああ」


「ならば、潮時ですな。鄴ではみなさまがお待ちです」


「俺もそう思っていた。

 ―――他の者たちはまだ、平原県城に滞在しているのだな」


「はい。ですが、出立の準備はいつでもできております。

 早朝に発てば、昼過ぎにはこちらに至れるでしょう」


「ならば明日、発つことにする。平原まで伝令を出してくれ。

 この家にはずいぶん世話をかけた」


 ゆっくりと立ち上がり、すでに過去となった事象を語るような声で、曹植は言った。


 仰臥の姿勢から起き上がれぬまま、崔氏は誰からも顔を背けるように静止していた。


*『詩經』國風・陳風「衡門」

衡門之下、可以棲遲。泌之洋洋、可以樂飢。

豈其食魚、必河之魴。豈其娶妻、必齊之姜。

豈其食魚、必河之鯉。豈其娶妻、必宋之子。


王先謙撰『詩三家義集疏』巻10「衡門」には、「豈其娶妻、必齊之姜」について三家詩の文字異同なし。


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