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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(二十七)衾を同じくす

(―――そういえば、(しん)夫人というかたは)


 民衆の困苦と富戸(ふこ)との関係について思いを馳せたことで、ふと、思い出されることがあった。


(かの汝南(じょなん)袁氏と姻戚になるほどの名門にお生まれになっただけでなく、ごく幼いころから、余人の及ばない逸話を多々お持ちのかただという)


 冀州(きしゅう)は先年没した大将軍袁紹(えんしょう)の根拠地であり、袁紹幕下に登用された人材にも冀州人士が多いため、袁氏一族ゆかりの話は広まりやすい。

 そうであるとしても、州内では辺境のほうに位置する清河くんだりまで噂がめぐってくるほど、かつて袁紹の子婦(よめ)であった甄夫人という貴婦人の絶世の美貌、そしてその卓越した徳行は、よく知られたものであった。


 そのうちとりわけ賞賛されているのは、十数年前の、戦火著しい時期の話である。

 甄夫人の郷里の一帯には戦争による物資欠乏に加えて飢饉が襲いかかり、人々はなけなしの金銀宝玉と引き換えに食料を求めていた。

 高官を代々輩出している上に、もとより裕福な彼女の実家は、大いに貯蔵していた穀物と引き換えに、そういった宝飾品を安価に買い上げようとしたのだという。


 それに対し甄夫人は、夫亡きあと実質的に家長となっていた母親に対し、


「いまのような乱世に宝物を買い取ったところで、のちの禍になる恐れがございます。

 また、世の人々がみな飢え苦しんでいるからこそ、穀物を惜しまず親族や地域の人々に分けて配るべきではないでしょうか」


と提言し、これを聞いた家人はみな賞賛して彼女の案に従った。

 果たして、同家は郷里での衆望をいっそう高めたという。


 甄夫人はこのとき、わずか十数歳の童女であった。

 しかも彼女は三人兄弟と五人姉妹のいちばん末の妹であるというから、常ならば家の中で最も従順に目上に従うべきとされる存在である。


 それでありながら、あえて母親に意見を呈したというのだから、相当な覚悟をもって、強く真摯なことばで説得しようと試みたのであろう。

 それだけ、戦乱と飢饉がもたらした惨状に深く心を痛めていたということでもある。


(とても、善良なかただ)


 新しい木材をようやく両断できたところで、斧をしばし地に立てて、崔氏は額の汗を改めて拭った。

 息がかつてなく荒くなっているのは、激しい運動のせいばかりではないことを、自分でもはっきりと感じていた。


 昨晩あんな夢をみてしまった自分という人間が恥ずかしい。

 度し難いほどに醜いことだと感じられた。


(甄夫人というかたは、容貌も心根も際立って美しく、幼時より聡明で―――まるで、天に選ばれたかのようなかただ。

 兄君の奥方と知りながら、平原侯さまが恋慕の情を断ち切れぬのも、無理なきこと)


 そこまで考えて、身体の芯が冷えるような熱くなるような、奇妙な感覚が立ち戻ってきた。


(―――平原侯さま)


 崔氏は打ち消すように頭を大きく振った。その拍子に汗がまた滴り落ちる。

 何かもっと、前向きになれることを考えなければ。


(わたしにいくらか優れたところがあるとしたら、体力ぐらいか)


 男に伍するほどの腕力があるわけではないが、使用人の数に限りがあるという宗家の経済的な事情により、肉体労働それ自体には慣れている。


 士人の家の女子にしては、ずいぶん頑健なほうではないかと思う。

 族弟妹に対して年長者の自分が模範を示さなければという思いから、疲れていても率先して動く癖がついたせいだともいえる。


 また、清河を離れて鄴と許都にそれぞれ三年ほど暮らしていた間も、使用人の頭数はぎりぎりというところだったので、女性全般の務めとされる機織りや針仕事以外の作業も、自分でこなすことは多かった。


(体力があるから、子どもをたくさん生むには、向いているかもしれない)


 子どもといえば、甄夫人は、鄴城の陥落にともない丞相の長子曹丕に娶られてからおよそ七年ほど経っているはずだが、その初期に一男一女を生したほかは、音沙汰がないという。

 寵愛の薄れとみる向きもあるが、単に健康を害しているから、とも考えられる。


 もしそうだとすれば、地上にはそぐわぬほど儚げな、という形容がいっそうぴたりとあてはまる佳人である。

 だが、生身の女性として考えた場合、配偶者にとっては―――あるいは彼女に思慕を寄せる者にとっては、その虚弱さは欠点として映る、かもしれない。


(現実の伴侶としては、野草のように丈夫なむすめのほうがよいと、お思いになるかも―――)


 そこまで考えて、主語が誰を指しているかに気がつき、崔氏はまた顔が上気した。

 いまだに分不相応な―――そして男女の礼を踏み越えた願望が頭をよぎってしまう、そんな己が恥ずかしい。

 その恥ずかしさから少しでも逃れたいばかりに、斧を振り下ろす動作にいっそうの勢いがつく。


(わたしが仮に安産で多産の体質だとしても、それを平原侯さまと結びつけるのがおかしいのだ。

 叔父上が選んでくださったかたに嫁ぎ、子どもをたくさん産んでさしあげることこそが、最初からわたしに課せられた務めだ。

 そう。子ども。子どもを儲けること。

 一体、どんな手順を()むのだろう)


 子作りといって崔氏がまず想起するのは家畜の交配である。

 去勢であれ種付けであれ、畜獣の生殖の管理もまた、農村部では欠くべからざる年中行事だからだ。

 この清河の宗家に暮らして()の敷地内で労働に従事する限り、牛馬などの交配は、季節が巡ると必ず視界に入ることになる。


 その結果として彼らが()を孕むことはむろん、崔氏も知っている。

 だが、まさか人間があんなことをするはずがないと思う。


(ご先祖さまの祭祀を粛々と受け継ぐ男児を儲けるための、神聖な営みなのだから)


 具体的にどうすれば子どもができるのかは教えられていないが、ともかく女のほうは月経が来る体質・年齢でなければならない。

 そして、夜着をまとう男女が同じ衾に入って初めて、女は身籠るのである。


 これまで得た知識を総動員すると、そういうことになる。


 その“同衾”の内実がよく分からないが、衾はおそらく比喩であって、(ねどこ)のような狭い空間に男女が横たわることが肝要なのであろうと思う。

 牛馬のような四つ足の獣も鵞鳥のような二つ足の鳥も、交配に際して横になることはないから、やはり人間の生殖はあんなふうではないはずだ。


 とはいえ、男女が並行して横たわるだけで何かが起こるとは思えないから、やはり―――何らかの接触、触れ合いは、発生するのだろうと思う。

 だが、衾の下で触れ合う、と考えたとき、崔氏の心にはっきりと影が落ちた。


(たとえ叔父上が選んでくださった殿方でも、華燭(かしょく)の晩に初めて顔を合わせるかたとそうやって―――触れ合ったりするのは、いやだな)


 そんな思いがごく自然に湧きいでたことに気づき、崔氏は愕然とした。


 接触それ自体に恐れや恥ずかしさは感じるとしても、これまでそういう結論に至ることはなかったのに、いまになって急にそう思うようになったのはまちがいなく、あの青年の―――曹植のせいであった。

 というよりも、彼の抱擁のせいであった。


 あの感触と安心感を知ったことで、それ以外の触れ合いはすべて、あるべきではないもののように思える。

 その気づきが、彼女をいっそう愕然とさせた。


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