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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(十四)抱擁

季珪(きけい)どのは若いころ、撃剣(げきけん)を深く(たしな)んでおられたと聞いた」


 ふたりの間に静寂が戻ってから、曹植がぽつりと口をひらいた。


「そのあと、そなたも手ほどきを受けるようになったのか」


「はい」


「女子の護身にはたしかに、筋力を要する長剣よりも、俊敏さで勝負をつけられる短刀のほうが向いているな」


「―――まことに、償いきれぬ不敬をいたしました」


「いや。構えと足元が意外と安定していて、驚いた」


 そしてまた黙った。


「―――膝に残った傷痕は、そのときの転倒で負ったものなのだな」


「はい」


「数年経過しても残る痕か。ずいぶん、深かったことだろう」


「―――はい」


「馬のことは、―――悪気はなかったが、無理に乗せようとしたのは、すまなかった」


「いいえ、そんな、決して」


 崔氏は大きくかぶりを振った。

 実際、あの日のあとも、馬という生き物や馬を御す作業を恐れるようになったわけではなかった。世家大族の深閨の令嬢ならともかく、自ら農事に携わることが定められた寒門の族人が畜獣を恐れていては生活が成り立たなくなる。()からの外出にしてもそうだった。


 崔氏の心境を案じてか、あのあと叔父夫妻は、暮らしに余裕はないながらも新しい婢女を見つけてきてくれようとしたが、


「自分の世話はもう、自分でいたします」


と彼女は珍しく従わなかった。


 臨時で手伝いをつけてもらうことはあるが、いまでも我が身のことは基本的にひとりでこなしている。ひとりで塢の内外へ赴くことももはや怖くはない。


 怖いのは、あの日自分を連れ去ろうとした見知らぬ人馬が突然思い起こされること、そして、同じ日に自分を護ってくれた腕を―――自分が見捨てたあの優しい腕を思い出すことだった。


「あなたさまには、非など何も」


 崔氏はもういちど首を振った。

 このまま何度でも詫びつづけなければ、と思ったが、背中に伸ばされた両腕の温かさのなかでは、ことばは意味を失いつつあった。


 耳元近くから伝わる呼気の音はごく規則的で、崔氏自身の呼吸の間隔より倍ほどもゆったりしているように聞こえる。


(このかたのほうがよほど、落ち着いておられる)


 本当に、わたしのことをお怒りではないのだ、と思った。


 彼女の話の間じゅうずっと、曹植は妨げずに耳を傾けてくれていた。


 我ながら、拙い回想であったと思う。そして、これより悲惨で救いのない話など、この戦乱の世にいくらでも転がっていることは崔氏もよく分かっていた。

 彼女が知るよりもはるかに広い世界とつながりを持ち、数多(あまた)の人々と交流する道がひらかれている曹植のほうが、その手の話はよほどよく聞き知っているだろう。


 だが、人はすべて異なる道を歩いている。その者にしか見られぬ光景がある。その者にしか分からぬ痛みがある。その者にしか語れぬ悔恨がある。

 何ひとつ同じでない生を知ることに意味があると―――そしてそれぞれに価値があると、この青年は思っているのではないか。


(見知らぬ者の語りを聴きたい、というこのかたの言明はきっと、本当だったのだ)


 そうしているうちに崔氏は、自分がとっている姿勢の慎みなさにようやく気づき、恥じらいを思い出した。

 だが、曹植のほうはただ幼な子の不安を除くように抱いていてくれることが分かるだけに、そんなふうに顔を赤らめる自分がいっそう恥ずかしい気がした。


 とはいえ、慎むべき振る舞いは慎まねばならない。


「あの、平原侯さま」


「どうした」


「あの、もう、異状はございません。万が一、家人が通りがかるかもしれませんので」


「そうか」


 曹植はそう言っただけで、自ら抱擁を断つことはしなかった。


「恐れながら、どうかもう、お放し下さい」


「いやだったか」


「いやとかいやではないということではなく、―――未婚の男女がこんなふうに触れ合っていいわけはありません。

 本当は、これほど間近でことばを交わすだけでも、十分まちがっておりますのに」


「儒者の子女というのはじつに几帳面だな。いかなるときでも礼法に操立てをする」


 崔氏はわずかに顔を上げた。この青年に傷を負わせた自分には彼を非難する資格など全くないと知りつつ、けれど、儒礼などさして尊重する価値もないかのようなその言を聞き流せば、自分を育ててくれた叔父への深い背信になるような気がした。


「―――恐れながら平原侯さまは、礼を規範となさらぬのなら何を規範となさいます」


「一切の礼法を無意味だと断ずるつもりはない。

 が、古の聖賢でもない身としては、そのときどきに感じたままに振る舞うのがいちばん悔いが残らぬと思うが、違うか」


「感じたままに振る舞うだなどと、―――話に聞く夷狄(いてき)や禽獣と同じではありませんか」


四夷(しい)の地にも傾聴すべき教えはあるそうだぞ。浮屠(ふと)(仏陀)というのを知っているか」


化外(けがい)の説は、我が家の親しむところではありません。

 ―――どうか、お放し下さい。わたくしはもう、無事です。ひとりで大丈夫です」


「俺にはあまり、無事には見えない」


 別に腹を立てるでもなく、曹植は静かに言った。


 崔氏は口を閉ざし、彼を見つめ返したが、ゆっくりとまた目を伏せた。

 視界の潤みはまだ残っていた。自ら離しかけた身体をこれ以上離してしまったら、たしかに再びくずおれてしまいそうな気がした。


 このかたの言われたことは本当だ、と崔氏は思った。

 背中に置かれた手の輪郭が、先ほどよりはっきりと分かるような気がした。


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