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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
19/166

(十)大宛馬

「では馬を引いてくる。待っていてくれ」


「―――はい」


 平原侯は家臣たちの監視をくぐり抜け、清河の(わたしば)からこの小川まで単身でやってきたというのだから、徒歩でなく騎馬で出奔したにちがいないことは、崔氏も当然予想はしていた。

 崔家は豪族としては貧弱ななりにも馬丁は何人か抱えているので、曹植の滞在中に毛づくろいをしてやったり(まぐさ)を与えたりすることは問題ない。


 ただ、馬と聞いたとき、崔氏の胸裏はほんの少し暗く陰った。


 やがて曹植は、近くの柳につないでおいたらしい自分の馬を引き出してきた。


 みごとというほかない姿だった。列侯という名乗りにたがうことなく、綾で飾られたその愛馬のたてがみは流れるようにくしけずられ、精緻な彫刻がほどこされた錫の馬具はよく磨き上げられている。だが、何よりも人目をひくのは馬自身の体躯だった。


 伯楽(はくらく)ならぬ目にも選りすぐりの血筋と判るその馬の四肢は過不足ない筋肉に覆われ、胴はしなやかに引き締まり、中原に産する馬とはおよそかけ離れた優美さを誇っている。


 目を大きく見張ったまま、崔氏はその場から動けなくなった。崔家で養う農耕馬より一回り以上も勝るのではないかと思われる巨大な影が、少しずつこちらに近づいてくる。


 ちょうど、あのときのように。童女の視点から見上げた、あのときの軍馬のように。


 崔氏は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 誰が見ても、世にも稀な美しい馬だということは間違いない。


(―――そう、とても、美しい馬だ)


 造形美にだけ心を囚われていればいいのだ、と自らに言い聞かせた。


 そしてそのとおり、感嘆の目で見つめなおそうとした。


「―――これは、どちらの産でしょうか」


大宛(だいえん)(フェルガナ)だ」


「まあ……!

 話にはその偉容を聞いておりましたが、西域産の馬を見るのは生まれて初めてです」


「俺もそう見慣れているわけではない。このたび成人したのと列侯に封じられた記念に、父上がご自分の所有の駒のなかから選ばせてくださったのだ」


 そう語る曹植の口調は十歳にもならない童子のように嬉しげで誇らしげで、崔氏はふたたび、気持ちがほのかに温かくなるのを感じた。父親の愛馬を譲り受けたことが彼にとってどれほどの光栄か、そして彼がどれほど自然な思いで父親を愛しているか、その表情を見るだけでこちらの肌の下にまでゆったりと伝わってくるのだ。


 そして曹植は、父との思い出から連想したのか、母や兄弟たちのことを同じ口調で―――常にその安寧を心に懸けていることがこちらにまで伝わる、熱のこもった口調で語り始めた。肉親のことを思うと、彼はおのずから饒舌(じょうぜつ)となるらしかった。


 このかたには愛するかたが、愛を向けずにいられない相手がたくさんおられるのだ、と崔氏は思った。


(自らをさらけだして、表現せずにはいられないのだ)


 それは彼女が受けてきた教育とはずいぶん違う方向を向いているが―――けれども、素敵なことだと思った。

 おそらくは、玉環(ぎょっかん)の元の持ち主も、その愛を注ぐ先に含まれるのだとしても。


 だが、幸福の余韻に包まれたそのとき、馬が鼻を鳴らす音がより近くで聞こえてきた。思っていたよりもずいぶん荒々しく、生々しかった。


 崔氏は努めてその巨体に目を向けまいとしながら、呼吸をゆっくり整えようと意識した。

 

 いま、あの日のことを思い出す必要はない。思い出してもどうにもならない。思い出してはならない。


 だが、念ずれば念ずるほどに、自分が遠ざかろうとしていたものへと引き寄せられてゆくかのようだった。


 そして前触れもなく、あのほっそりした繊手(せんしゅ)のやわらかさ、その温かさが蘇った。自分の手をいつも握って、守ろうとしてくれていた手だ。その手はこちらへ差し出されたまま動きを止め、やがて力なく地に落ちていった。


(いやだ)


 声にならない声とともに、崔氏はその場に崩れ落ちるように膝を着いた。


 右手を地面に這わせて上体の支えとしながら、発してはならない何かを恐れるように、顔を伏せたまま左手で口を覆った。

 額に脂汗が流れるのが分かった。曹植が急いで近づいてきたのも分かった。だが顔を上げられなかった。


「どうした」


「何も」


「具合が悪いのだろう」


 首だけで小さく否と伝えてから、崔氏はようやく、


「申し訳ございません」


と消え入るような声で詫びた。


「すぐに治ります、―――すぐに」


「しばしばこうなるのか。何か持病が?」


「いいえ。もう二度と、こんなふうにはなりません。もうこんな」


「分かった。無理に話さなくていい」


 応答の声すら少しずつ変調を帯びてきた崔氏の傍らに曹植は膝を着き、顔色をたしかめようとした。


 彼女は反射的にいっそう深くうつむいた。呼吸がいよいよ不規則になるのを感じ、けれど自らの意志で統御することはできなかった。


(―――いやだ)


 無声の叫びがふたたび喉の奥で弾けた。


 いやだ、いやだ、いやだ。


 ちがう、そうではない。このかたはわたしに害などなさない。あんなことはもう起こらない。この地ではもう、誰の身にも起こらない。


 曹植の声が驚くほど近くから聞こえた。血を分けた家族のように案じる声だった。


「―――何か、恐れていることがあるのか」


「いいえ」


「とにかく、落ち着いたらこれへ乗れ。まずは貴家へそなたを送り届けぬことには安心できない。

 鞍上で姿勢を保てなければ、首を抱くようにもたれかかっても大丈夫だ。振るい落とされたりしない」


「もったいないことです」


「そんなことを言っている場合か。こう見えても気性は優しい馬だ。俺も介添えする」


「いいえ、ひとりで歩けます」


「馬鹿な。―――立ち上がれもせぬではないか」


 無理に膝を伸ばそうとしてよろけた崔氏に対し、曹植は初めて苛立ちの色を見せ、有無を言わせぬ強さで彼女の身を抱きかかえた。

 ひたすら文人としてのみ名が知られ、自分よりやや小柄に見える彼の腕にこれほどの力があるとは、崔氏にも意外だった。


「自分の足で立ち上がれないほどとなると、俺の(てのひら)を踏み台にして馬にまたがるのは難しいな。

 平坦で高い足場があれば、そなたを抱えて鞍上に押し上げることはできそうだが、―――適した岩はなさそうだ」


「いえ、どうか―――」


「ないなら仕方ない、試してみよう」


 そう言って曹植はかなり力を込めて崔氏の身を持ち上げようとしたが、馬の体高が高すぎることもあり、また、彼女が自分で馬の背にしがみつく動作をとれないこともあり、やはり無理があった。


「だめか」


 いちど地面に足をつくように降ろされ、大丈夫か、と気遣われる。


(御礼を、申し上げなくては)


 ここまで手を尽くしてくださったのだから、と崔氏は心の底で思うが、声はのどの奥でこわばりつき、意味のある音として発せられない。

 逃れられない、と思った。


 いましがたの感覚。巨大な馬体の陰でかかえ上げられ、さらにその鞍上へと押し上げてくる力。間近で聞く男の呼吸。馬の体熱。


 その感覚を反芻したくなどなかった。だがそれらは去っていかなかった。彼女の四肢はいつのまにか、死者のように凍りついていた。手足がもはや、自分のものでなくなったかのように思える。


 そして同時に、自分では制御しようのない、異様な衝動が爆発へ近づいてゆくのを感じた。


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