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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(九)列侯の印綬

 崔氏は一瞬何を言われたか分からず、ふたたび、ぱちぱちと両目を瞬かせた。

 ゆっくりと頬が赤くなり、やがて頬ばかりでなく、身体の芯から火照りあがってゆくのを感じた。


 次の瞬間耳に届いたのは、やや大きめのくしゃみだった。装ったふうでもないが、いくらか間がよかった。


「―――まあ、風邪をお召しになられましたか」


「かもな。そういうことにすれば、そなたの邸に寄るくらいはかまわぬか」


「それは、―――それは、お召し物を乾かすためだけならば、あるいは」


「ありがたい」


 意を得たり、とばかりに曹植は笑った。

 それはあまりに心をひらいたような人懐こさで、士君子の礼容からはほど遠いものだったが、崔氏はふと、この瞬間が終わらなければいいのにと思った。







「貴家はここから遠いか」


 曹植からの何気ない問いかけを受けて、彼女はすぐに我に返った。いましがた胸をよぎっていった思いに自分で動揺しつつ、まちがっても顔に出ていないようにと願った。

 ひとつ呼吸を置いてから、できるだけ事務的に答えようとする。


「そうでもございません。あの林を抜ければすぐ、塢壁(うへき)が見えてまいります」


 そういって崔氏は、川岸の柳並木を透かした向こうに始まる側柏(コノテガシワ)の林を指さした。


 背が高く葉も繁茂した木々が比較的密集してそびえているので、昼でも薄暗い印象を与える。ただ、塢とこの小川を行き来する際の経路としては好適であるため、おのずと道はふみならされており、人だけでなく、耕馬や耕牛も通り抜けられるぐらいの空間はつくられている。


「薄暗いな。明るいところを迂回したほうがよくはないか」


「ですが、早めに拙宅に着いて暖を取られたほうがよろしいかと」


「それは、ありがたい心遣いだが」


 曹植はふと、思い至ったような顔で言った。


「塢壁が築かれているということは、警備も相応に厳重だろう。そなたの邸に出入りするには、身元を証すものを見せたほうがよいだろうな」


「そうですね、―――わたくしとともにおいでいただければ、門の通行は問題ないはずですが、あるに越したことはないかもしれません」


「そうか」


 言いながら曹植は自分の懐のなかを探っていたが、ふと目を見開いた。


「ない」


「どうなさいました」


「平原侯の印が、ない」


 そう言って彼が懐から取り出したのは、紫と白の絹糸で模様を織りなす幅広の(ひも)であった。話には聞いていたが、列侯は本当に紫綬なるものを賜るらしい。


 綬は官爵に応じて授けられるもので、幅は一律に一尺六寸(約39cm)だが、長さは地位によって異なり、通常は短めに折り束ねて腰の帯に下げるものである。しかしそれだと人目に付きすぎるので、これまで隠していたのだろう。


 だが崔氏を呆然とさせたのは、光沢ある紫綬の神々しさではなく、その先端に何もない―――一寸四方の印が結わえられていないことであった。列侯の印であれば、本来は黄金製のそれであろう。


「まあ、何ということ……!」


 曹植以上に崔氏の顔が青くなった。もともと色白な顔が、ほとんど死人のような様相を帯びてくる。


 地方の弱小豪族にすぎない崔家の門をくぐるのに、官印のような身分標識はなくてもよいが、平原侯の印といえば天子より賜った代替不可の品である。それを失くしてしまったとなれば、曹植は父曹操に申し開きのしようがなく、曹操もまた、天子に息子の不敬を詫びることになるだろう。


「川のなかで転倒なさったときに、弾みで落としてしまわれたのでしょうか」


「どうだろう。そうかもな」


「まあ……一体、どうすれば」


 崔氏は口を手で覆った。もしそのとおりならば、紛失の原因はどう考えても、自分がこの青年をふいに驚かせたせいである。


「川底を、探してまいります」


 色を失った顔で踵を返そうとする崔氏の袖を、曹植は引き留めた。


「印はほんの小さなものだ。あのあたりの川底は岩がちだったから、岩と岩の間の奥深くに陥ってしまえば、回収するのは難しかろう」


「―――ならば、どうすれば」


 自問したまま、崔氏は立ち尽くしていた。


「償いのしようもございません」


「いや、償いはしてもらおうと思えば、できる」


「まことでございますか。どうかおっしゃってください。

 わたくしのできることなら、何でもいたします」


「何でもか」


「はい、どんなことでも」


「それだ」


「え?」


「いくら借りを作ったと思ったからといって、見知らぬ男と二人きりになった場で、“何でもする”などと安易に言ってのけるものではない」


「―――何をおっしゃっているのですか」


 当惑した面持ちで崔氏は問い返した。


「少しからかってみたのだ。印はある」


 そう言って曹植はふたたび懐中に手を入れて取り出し、掌をひらいてみせた。たしかに、輝きを放つ金印がそこにあった。


「俺が以前、鄴の市中の賭場で見物していたときに()られかけたことがあってからというもの、いつ何時(なんどき)も首にくくりつけておくようにと子昻(しこう)らから厳命された。たしかに、そうでもしないと俺はまた失くしそうだ」


「―――というのは、つまり」


「そなたは男女の別には厳しいわりに、男というものをあまり分かっていないようにみえる。

 このあたりはそなたにとっては庭先のようなものだから、却って警戒を解いているのかもしれないが、少なくとも貴家の敷地内ではないだろう。

 たとえ近道でも、よその男を案内するときに暗いほうを選んではだめだ。今後のために覚えておくといい」


「―――嘘をおっしゃったのですか」


「俺が君子(くんし)でよかったな」


「君子はひとを騙したりなさいません」


「それはそうだ。悪かった」


 さして反省していなさそうな声で曹植は朗らかに詫び、そして付け足した。


「だが、好いた男がいるならなおさら、それ以外の男には警戒を厚くしておくべきだ」


(一体、このかたは何なのか)


 崔氏は耳まで赤くなったが、怒るべきか呆れるべきか分からなかった。

 だが、これまで自分の周りにいなかった種類の人間であるのは確かであった。


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