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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(八)遠想

「そういえば、あれは少し前まで冀州(きしゅう)の従事だったな。そのころは季珪(きけい)どのも、冀州(ぼく)の官を拝したばかりのわが父のもとで別駕(べつが)従事を務めておられたはずだ。

 なれば子昻(しこう)は季珪どののかつての同僚、いや下役になるわけだな。ひょっとしてそなた、面識があるのか」


「下役だなどと、―――思い出しました。(けい)子昻さまのことは、鄴の拙宅にてたしかにお見かけしたことがあります。

 叔父の意向で正式に引き合わされてご挨拶申し上げたわけではなく、わたくしはまだほんの子どもだったので、邸の奥から表側に出入りしても大目に見られていたころのことです。

 叔父がときおりお招きしていた賓客がたのなかに、邢子昻といわれるかたがたしかにいらっしゃったように存じます。―――ことばの選ばれ方も立ち居振る舞いも、このうえなく謹厳なかただったように思われます」


「ならばまちがいない、そのとおりだ。

 今でもよく思い出せるということは、わりと頻繁に貴家を訪うていたのだな」


「ええ。あのかたは叔父よりひとまわりほど年下でいらっしゃったように存じますが、叔父は大変高く買っておりました」


「いかにも気が合いそうなふたりだからな」


 皮肉というよりはしみじみとした実感のにじむ声で曹植はつぶやいた。


「いずれにしても、邢子昻さま始めみなさまがたが人心地もつかぬほどご心配なさっていることはまちがいありません。このあたりはたしかに遊侠の徒こそおりませんが、暮れれば物取りが出ることもございます」


「だが、そなたのような年若いむすめがひとりで出歩くことをはばからぬぐらいには治安が保障されているのだろう」


「それは、まあ、そうですが……」


「先ほどからずっと思っていたのだが、そもそもそなたとて、俺と同じように身辺の者の目を逃れて羽を伸ばしている口ではないのか。自家の周辺とはいえ、良家の婦女子が婢女も連れずに外出するなどそうあることではない」


 丞相家の人間から良家の婦女子などと呼ばれて、崔氏は先ほどとはまた別の、ひどく気恥ずかしい思いが沸き起こった。同時に、この身なりを見てそんな発想が出ることが不可解でもあった。


 季節柄厚い布地を用いているとはいえ、上下の服は麻織であり、染料もだいぶ褪せかけている。上衣の袖は筒袖に近いほど短く詰められ、裙の裾もようやく足首に達するほどしかない。


 さらにいえば、後頭部に結った(もとどり)を留めているのは竹の(こうがい)であり、残りは背中に流している。どう見ても農婦にしか見えぬはずであった。


「曹丞相の―――お父上さまのお取り計らいにより叔父ふたりが仕官の誉れを蒙ったと申しましても、我が宗族自体は長年の間、中央での栄達とは縁なく暮らしてきた寒門(かんもん)にすぎません。傭人(ようじん)(期間契約の雇い人)を十分に置く余裕がないので、こうして族人交代で染料や薬草の採取に赴かねばならぬのです」


 言いながら、崔氏は先ほど柳の下で拾い上げた編み籠をそっと示した。


「だが、そなたの挙措や言葉遣いは明らかに教育を受けた女子のそれだ。

 季珪どのはたしかかの大儒(たいじゅ)康成(こうせい)鄭玄(じょうげん))に師事されたのだったな。叔父上から学問の手ほどきを?」


「家事の合間に、少しばかり」


「やはり鄭注にのっとった五経の講釈か」


「はい。ほんの初学の身ではございますが」


「だが向学心は豊かなようだ。『楚辞(そじ)』は自ら親しんだのだろう、九歌(きゅうか)(そら)んじるほどに」


「え?」


「柳の向こうから俺に和していただろう」


「それは―――」


「声の主をたしかめようかとも思ったが、あのときはいろいろと思念が飛んで、余裕がなかった。

 そなたにも、忘れがたい男がいるのか」


 突然に問いかけられて、崔氏は固まらざるを得なかった。問いかけたほうはいたって悪気のない顔をしている。


「なにゆえでありましょう」


「そんな声をしていた。どこか遠くに思いを致すような。

 この見立ては誤りか」


「それは―――」


 崔氏は否定しかけたが、目の前の大らかな表情を見ているうちになぜか、意図せずして自分の唇が語り始めた。


「―――仰せの、とおりです。

 あのときたしかに、想うかたがありました」


 告げてしまってから、わたしは何を口にしたのか、と崔氏は息が止まるような思いに襲われた。自分のことが信じられなかった。

 ようやくのことで曹植と目を合わせると、こちらの反応がいかにも楽しいと言いたげに笑っている。弦のように細められたその目元は、ふしぎと優しい色をしていた。


「やはりいますぐ、本道に戻らねばならぬか。子昻(しこう)らの苦りきった顔を拝むために」


「もちろんです。みなさまは衷心(ちゅうしん)からご不安を募らせておられましょう」


「そなたとここで別れるのが、いよいよ真摯に惜しまれてきた」


「なぜです」


「未婚の身で男への思慕を語る娘を―――それも厳格に儒礼を奉じている家の娘を、間近に見るなどめったにないことだからだ」


 平熱に戻りかけていた崔氏の頬が、ふたたび燃えるように熱くなった。口をひらいても、消え入るように小さな声しか発することができなかった。


「それは、むろん」


「いま、何と」


「それはむろん、わたくしも恥じております。心から、恥じております。放恣(ほうし)も甚だしいことを申し上げました。どうかお忘れください」


「責めているわけではない。そなたともう少し話をしてみたいと思ったのだ。

 どうしてその男を好いたのか、どれほどの年月を経ているのか、恥ずべきことだと思ってなお断ち切れぬほど好きなのか。―――問うてみたいことはいろいろある」


「そんなことを問うてどうなさいます」


「どうもせぬが、見知らぬ人間と偶然に出会い、話をし、その人間にしか語れぬことに耳を傾けるのはたのしいではないか。

 どんな人間にも―――男でも女でも、士でも庶でも、文字を識ろうと識るまいと、その者だけの(おもい)があり(ことば)があるはずだ。

 俺はそれが聴きたい」


 崔氏は目を瞬いた。相変わらず変わったことをおっしゃるかただ、と思った。


 天下の丞相の御曹司が―――しかも、二十になるかならぬやで中原(ちゅうげん)の人士を瞠目(どうもく)させる名文を次々にものする俊英が、女子どもや庶人の粗放な語りにも傾聴する価値があると主張するのは、まったく思いもかけないことであった。


 それに、と曹植は開けっ広げな笑顔でつづけた。


「そなたがいまさっきのような表情をするのをもうしばらく目にできれば、もっとたのしかろうと思った」


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