(四十)夫婦之事
「だいぶ冷えたな」
曹植がようやく呟き、それを機にふたりの手を水から引き上げた。
崔氏は目を開けて袖から手巾を取り出し、まず彼の手を拭おうとした。
「いや、大丈夫だ。そなたの手のほうが凍えていそうだ。悪かった」
「いいえ」
崔氏は首を振り、まだ赤い自分の手の指を見つめた。
この指をうれしげに掴んでいたあの小さな指がふと浮かび、消えた。
「春秋の世の人々も―――こうやって、水のほとりで呼びかけたのでしょうか」
去り行こうとする魂魄に、とは口にしなかった。
曹植は黙ってうなずいた。
「大事ないか」
ふたりはまた草地に戻って腰を下ろしたが、崔氏の手があまりに冷えているのを案じて、曹植は両手で包むように温めた。
「ありがとうございます。
ですが、ご登庁の時刻が近づいております。
わたくしたちはそろそろ車へ戻るべきではないでしょうか」
そうだな、―――と曹植はうなずきかけたが、いや、と途中で首を振った。
「いまは、夫婦の事を優先するべきだ」
「子建さま!」
崔氏はまた目元を朱に染めて抗議した。
冗談であるにしても、こんな屋外でそれを言うのは悪趣味にすぎる。
「誤解するな。鄭康成のいう“夫婦の事”はまちがいだ。
それは夫婦でなくてもできる」
(何ということを―――)
鄭玄の説を否定し、かつ男女の婚外交渉を当然視するかのような発言に、崔氏はますます憤りかけた。
曹植は意に介さぬように彼女の肩を抱き、自分が上体を倒すのに合わせてゆっくり引き倒した。
ふたりで横並びに向かい合ったまま、草の上に寝転ぶ形になった。
蘭とは別の香草であろうか、かすかに清爽な香りがふわりと鼻先に立ち昇った。
崔氏が身を固くしていると、そのまま胸のなかに抱きすくめられた。
彼女はかろうじて押し戻そうとした。曹植はその耳元に顔を寄せた。
「夫婦の事というのは」
「子建さま、これ以上は」
「歳月を分かち合うことだろう」
崔氏は抵抗をやめた。胸の奥が静かになった。
「去っていった者をともに悼むのも、そのひとつだ」
抱擁に身を委ねたまま、崔氏は目を伏せた。
仰せのとおりです、と言った。
まだ朝方のうちだったが、茂みの枝葉をすり抜けてこの草地と渓流に注ぎかかる陽光は、緩やかにまばゆさを増していた。
春暖と呼ぶにふさわしい陽気が、目を閉じたまま静かに横たわるふたりをくるむように覆っていた。
「ああ、―――あれらも痺れを切らしたな」
ふいに曹植がつぶやき、彼の胸に安んじていた崔氏は顔を上げた。
「あれら?」
「足音だ」
耳を澄ますと、たしかに複数人の重々しい足音がこちらに近づいてきていた。
「大変、―――」
「そうだな、大変だ。
この野外で“夫婦の事”に勤しんでいたと思われてしまう」
自分で言いながら、曹植はからからと笑い出した。
崔氏にとっては全く笑いごとではない。
「早く、早くお放しください! 服の皺や崩れを直さなくては。
子建さまの冠も、―――あっ」
「どうした」
「髪を下ろしたままでした。今からでは、とても結い上げられません」
崔氏は自分の後ろ髪に手を伸ばした。
幗で覆っているとはいえ、髻を結っていないのは近くで見ればわかる。
「そんなに問題か」
「なぜ髻を解いたのかと―――ふたりで寝そべっていたのかと疑われてしまいます」
「寝そべったのは事実だから、別によいではないか」
「いいわけがありません!」
崔氏は力を込めて曹植の腕を振り払ったが、直後に彼の身体を起き上がらせてその襟や裾を正した。
そして近くに置いてある冠をかぶらせて位置を整え、手早く纓を結んでやった。
「さすがの手際だ」
子どものように感心する夫に崔氏は半ば呆れながら、自分の襟や裾も入念に正し、下ろした髪以外は極力平常どおりに見えるようにと願った。
そのときちょうど、茂みを押し開くようにして、四五人ほどの影がこの草地に入ってきた。
果たして護衛の者たちだった。馬は停車の地点に置いてきたのであろう。
「臨菑侯さま、奥方さま、こちらにおいででしたか」
「待たせたな。すまなかった」
例によってあまり悪いとも思ってなさそうな伸びやかな声で応じながら、曹植は彼らに向かって歩き出した。
崔氏も顔を伏せがちにして後につづいた。
茂みに入るときは難儀したが、茂みから出るときは、枝葉をできるだけ左右に寄せてくれた彼らの手助けのおかげで、だいぶ楽になった。
待機させている馬車に向かって歩きながら、護衛の半ばは曹植の、半ばは崔氏の左右を固めるように歩いている。
ふと崔氏は、自分の左後ろを歩く者―――護衛のなかでも最も若い青年から、頭部から肩のあたりを凝視されているような気がした。
無視すればよいことだったが、ここでは何か、釈明しなければ居たたまれないような気がした。
そちらをそっと振り向くと、果たして青年はこちらに視線を向けており、臨菑侯夫人と目が合うや、はっとしたように面持ちを緊張させた。
「気になりますか」
「え?」
「これは―――この髪は、寝そべったということではなく、茂みに入るときに、枝が引っかかっただけなのです。だから髻を解きました」
「そうなのですか。―――あの、臨菑侯夫人」
「何か」
「肩の後ろに、草切れがついています。土も、少し」
前方で聞いていた曹植が、ついにこらえかねたように、手を叩いて呵々大笑した。
硯があったら投げつけてやるのに、と耳朶まで赤く染めた崔氏は思ったが、やはり手元には硯がなかった。
護衛が許可を得てから彼女の肩を払うより先に、春風が瑞々しい緑を吹き流していった。
「伉儷」篇の本編は以上になります。
ここまでお読みくださった方々、本当にありがとうございました。
よろしければご感想などいただけたらうれしいです。
このあと少しお休みしてから、「伉儷」篇の覚え書き、そして次の「父子」篇に入りたいと思います。