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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(三十八)禊

 やがて、季春の月を迎えた。

 (ぎょう)の近郊を流れる(しょう)水も、日に日に水かさを増してゆくようであった。

 臨菑侯邸の樹木にも春の息吹がゆきわたるなかで、上巳(じょうし)の日が近づいてきた。

 金瓠の死から、ようやく干支(六十日間)が一巡しようとしていた。


「明日は、ふたりで(みそぎ)に行くか」


 上巳の前日の朝、登庁する前に曹植が言った。

 彼の冠の(ひも)を結んでいた崔氏は戸惑ったように夫を見返した。

 例年であれば別に奇妙な提案ではなかったが、今年の曹植はまだ鄴の留守(りゅうしゅ)の地位にある。

 三月上巳に水辺に出かけて禊をおこなうのはふつう日中なので、勤めの最中に抜けることになるのではないか。


「明朝、そなたも一緒に邸を出て銅雀園へ寄ればよい。早朝ならば人も少ない」


「それならば―――お勤めに響かないならば、よろしいかと思いますが」


「では行こう」


 そのようにして禊が決まった。

 果たして翌日、曹植は珍しいことに自力で少し早めに起き、登庁のための衣冠を身に着けるのも早かった。

 三月上巳の禊は民間の行事であって公的な儀式ではないので、崔氏もとくに仰々しい礼服を着ることはせず、外出用ではあるが禊に適した簡易な衣をまとうのみとした。






 魏公の宮殿のみならず、臨菑侯邸およびそのほか曹氏一族の邸宅は、鄴城内全体でいえば銅雀園に近接するとはいえるが、園に至るまでの道のりは長く園の敷地自体も広大なため、移動にはやはり車を使う。

 列侯および列侯夫人はそれぞれ定められた規格の車に乗ることになっており、同乗することはない。

 崔氏が乗る輜軿車(しへいしゃ)は曹植の安車(あんしゃ)の後を追って銅雀園の門をくぐり、舗装された道をさらに走りつづけた。


 たとえ列侯夫人の車でなくとも婦人用であれば当然、車上の人間の姿が外から見えないように慎重に覆われているが、崔氏は道中で時折り、車を覆う漆布の合わせ目を少し広げては、外の景色に目をやった。


 以前、とくに金瓠が生まれる前に曹植と何度も歩いたことのある、目に馴染みのある風景だった。

 早朝なので空気はまだいくぶん肌寒いが、視界をよぎっていく色とりどりの花々は目に楽しいものであった。


 桃花の盛りを迎えた果樹の林がしばらくつづいたと思ったらようやく途切れ、いくらかひらけた区画に出た。

 このあたりには大きめの池あるいは石渠で囲まれた水路もあるので、それらのいずれかのほとりで車を停めることになるのだろうかと崔氏は思ったが、前方を走る曹植の車は停止しなかった。


 そのうちに景色はしだいに見慣れないものとなり、密集する樹木が園林というより山林のような様相を呈しはじめ、車を乗り入れられる道がこの先つづくのかも怪しくなってきた。

 果たして、舗装路はこのあたりで途絶えたらしく、曹植の車が停まったので崔氏の御者も車を停めた。


「ここで待つように」


と下車した曹植が御者たちに声をかけるのが崔氏の耳にも聞こえてきた。

 そして車の覆い布が左右に分けられたかと思うと、曹植が手を伸ばして崔氏の下車を助けた。


「このあたりは初めてか」


「はい」


 夫の進む方向に従って歩きながら、崔氏はそれとなく周囲を見渡していた。

 少し後から従ってきていた護衛の騎馬たちも二台の車に合わせて待機させているため、本当にふたりだけの道行きである。

 進むにつれて左右の緑はいよいよ濃く生い茂り、季春というより初夏の様相すら思わせる。

 ただ、涼気のおかげなのか、虫がいないのはありがたかった。


「ここらだったか」


 曹植はふと足を止め、右手に広がる背の高い茂みと茂みの隙間に何とか身を滑り込ませた。


「難儀だな。前はこんなふうでは―――」


などと言っている最中に冠が途中で引っかかったため、外して手に持ってから、再び茂みの向こう側に入っていく。


「そなたも」


と茂み越しに手をとられ、崔氏もおそるおそる茂みをかき分けて入っていった。

 列侯夫人の装束として、紺色の絹糸で織ったかみづつみ(もとどり)を覆ってはいたが、やはり途中で幗が引っ張られ、髻にも枝がさしこむ事態になってしまった。


 結局小枝を何本か折ってようやく通り抜けられたが、髻は相当崩れてしまったので、(こうがい)も外し、髪をすべて背中へ下ろさざるを得なかった。


(まさか、こんなことになるなんて)


 成人女性が家の外で髻を結わないのはよほどのことである。

 万が一人目に触れたときのために、崔氏はできるだけ髪全体を幗で覆おうと努めたが、やはり不安な心地であった。


「悪かった。前に来たのはまだ寒い時期だったからか、枝葉はここまで密ではなかった」


 居たたまれなさそうな妻のようすを見て、冠を外したままの曹植は詫びた。


「だが、安心していい。ここにはまず余人は立ち入らない」


 そう言って彼が指さした先には、岩の間から涌き出て二三の曲線をえがき、少し離れた先の岩の間にまた吸い込まれてゆくささやかな渓流があった。

 彼らが立つ場所とその流れは今しがた苦闘したような背の高い茂みの群れに囲まれているが、ちょうど東側の茂みはいくらかまばらになっており、朝の陽光が差し込むのを妨げてはいなかった。


 崔氏は渓流に近づいてゆき、ほとりの平らな石に立って見下ろした。

 裾を持ち上げればまたいで渡れそうなほど幅が狭く、水深もあまりに浅いためか魚の影もないが、岸辺を縁どる草花が揺れる水面はどこまでも清しく澄み切っていた。


「―――美しいですね」


「そうだろう。いずれ連れてこようと思っていた」


「どうやってこの場所を見つけられたのですか。

 造園が完成してまもなくのころですか」


「いや、最近だ。―――今年になってからだ」


 そう、と崔氏はうなずいた。

 年が明けてからとはつまり、金瓠が亡くなってからを意味している。

 妻とともに邸で過ごすのも、邸に早く帰ることすらもためらっていた時期、曹植は登庁して務めに没頭したり心を許せる友人たちと会ったりする以外には銅雀園でしばし時をやり過ごし、できるだけ人のいないほうへと彷徨するうちに、偶然にもこの場所を見つけたのだろう。


「この園内は兄弟たちとたいてい闊歩したつもりだったが、まだまだ知らない場所があるなと思った。不覚だった」


 それを聞いて崔氏はほのかに笑い、岩の上に膝をつくと、渓流に手を浸してみた。

 思った以上の冷たさに驚き、まもなく手を引き出した。

 そんなに冷たいか、と曹植もかたわらに膝をついて手を浸しかけたが、


「本当だ」


と手首まで入らぬうちに大慌てで手を引き戻したので、ふたりとも笑った。

 このようなささやかなことで笑い合える日常が、緩慢ながら戻りつつある、ということでもあった。


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