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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(三十七)哀辞

 最後に崔氏に残されたのは、書物しかなかった。

 帰邸後の曹植が書房に籠りがちになる理由も、いまの彼女にはよく分かった。

 現実に押しつぶされないためには、文字の世界に沈んでゆくしかない。


 曹植の蔵書は詩賦に限らず幅広い方面にわたるが、崔氏自身が結婚に際しこの家に携えてきたのはもっぱら経書(けいしょ)(儒教経典)とその関連書であった。

 育て親である叔父崔琰(さいえん)の手ほどきを受けて幼いころから学んできた書物であり、むろん彼が師事した鄭玄(じょうげん)による注釈書が大半を占めている。


(悲しみにも、節度が必要なのだ)


 三礼と総称される『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』をはじめとして、死者のための服喪に関する記述は経書に多く見出される。

 そのどれもが、礼法のとおりに己を律することで、喪失を克服でき平安を取り戻せると説いている―――少なくともいまの崔氏には、そのように思われた。

 礼に従い己を律することこそが、聖賢が定めるところの人の道であり、哀悼を過剰に尽くすこと、悲しみに過剰に囚われることは、人の道に反することだ―――そのように解することに努め、日常に戻ってゆこうとした。


 金瓠の死からひと月ほど経っても、曹植は夫婦の、というより崔氏の(ねや)で過ごすことがなかった。

 別に邸内で彼女を無視しているわけではなく、朝晩の衣食は従来どおり妻から世話を受けて会話もしている。

 そして、帰宅時はだいたい酒気を帯びてはいるが、泥酔というほどには至っていない。


 結婚前からの習慣として、家の外で飲むときはほぼ必ず友人たちと一緒のはずだから、曹植の酒量があまりに度を越せばその友人たちが―――友人のなかでもおそらく、曹植が最も謙虚に耳を傾けるところの親友である楊脩が、適切な機をみて止めてくれているのだろう。


 だから崔氏も、自分からは何も言わないように努めていた。






 だがある日の昼間、曹植が不在にしている間、寒気が戻った場合に備えて予備の衣を架けておくため書房に立ち入った際、(つくえ)の上に一幅の帛書を見つけた。

 草稿ではなく、おそらく清書されたものだった。

 筆墨は乾いている。


 詮索はしたくないので、曹植が不在のときに書房に置かれている書き物にはできるだけ目を止めず手も触れないようにしているが、今回目が離せなかったのは、その文面が哀辞(あいじ)、つまり夭折した者への追悼文であるからだった。


 十二句にわたる哀辞は、「(なんじ)に従いて期有らん」、すなわち「いずれおまえの後を追ってゆくだろう」と結ばれていた。


 几のそばに膝をつき、崔氏は文章を何度も読み返した。

 頭に入ってくるようで、入ってこなかった。

 だが、これを契機とすべきなのかもしれないと思った。






 その日も曹植の帰邸は遅かった。

 これまでどおりいくらか酒気を帯びてはいるが、足元はしっかりしている。

 やはり今夜が適しているのだろう、と崔氏は思った。


 衣を改めた後でいつもどおり書房へ向かおうとする彼を引き留め、目を見つめながら言った。


「金瓠のために、文をお書きになられたのですね」


「ああ、―――見たのか」


 曹植の声は意外そうではあったが、隠していたものを暴かれて見られたわけでもないので、怒っているふうではなかった。

 しかし、それとなく目をそらして言った。


「そなたにも、じきに見せようと思っていた」


「それは、よろしいのです。

 わたくしが案じているのは、―――あまりに深い悲嘆は、御身(おんみ)を損なうということです」


 曹植は何も言わなかった。崔氏はつづけた。


「ご承知のこととは存じますが―――幼な子の死を過度に悼むのは、礼の精神に反します。

 文をつづって哀悼の意を表すのも、本来は既に功績ある成人のための作法なのですから、これ以上はお控えになられますよう」


「控える?」


「さようでございます。

 感情が高ぶるままに亡き子について書き下ろすのは、正しいこと(・・・・・)ではありません。

 何より、もし仮に、成人するまで生きながらえることができたとしても、いずれにしてもあの子は―――金瓠は女児だったのです。

 せめて男児でないのが救いであったと、どうかそのように、思し召されますよう」


 曹植の表情に、初めて生気らしい生気が戻った。

 思いが通じたのかと崔氏は安堵して目を細めかけ、だがすぐに大きく見開くことになった。

 夫の顔に浮かびあがったのは、明らかな怒りの色だったからである。


「どういう意味だ。女児なら哀惜する価値もないということか」


「そうは申しておりません。

 ですがあの子は、いずれは他家に嫁ぐ身でした。

 子建さまの後を継ぐことはできなかったのです」


「そなた自ら腹を痛めて生んだ子だろう。

 よくもそんな無情を平然と口にできるものだな」


「―――平然としているわけでは、ございません」


「そうだろうとも。

 そなたの気性で俺が我慢ならぬのは、何よりその点だ。


 本当に悲しみを感じておらぬならそれはそれでいい。

 哀哭を装うよりは、薄情を隠さぬほうがまだ醜悪ではないからな。


 だがそなたは、俺と同じ痛みに遭いながら、嬰児のための服喪は礼に外れるというだけの理由で、葬儀からこのかた何も起こらなかったような顔をしている。

 そんな礼は人を人でなくするだけだ。そんな欺瞞があるものか。

 そのうえ今度は、男児でないからよかったとは……!」


 吐き捨てるように言い終えたあとも、彼の拳は震えていた。

 崔氏は何も答えずに、黙って目を伏せていた。


(それゆえ、だったのだろうか)


と、どこか他人事のように気がついた。


(あの子が没してからというもの、子建さまがわたしたちの閨に―――わたしがいるところに寄り付かなかったのは、わたしに欺瞞があると、お思いだったからなのだろうか)


 そう気づいてみても、実感らしい実感がまだ湧かなかった。

 数拍おいてから、喉の奥が震え始めた。やがて涙が頬を伝い落ち、襟の上に小さな染みが生まれ、同じような濃色がぽつりぽつりと広がっていった。


「―――すまぬ。言い過ぎた」


「いいえ」


 子建さまのせいではありません、という代わりに小さく首を振りながら、崔氏は自分でも、なぜ今さら涙が湧き出でて止まらないのか、よく分からなかった。

 いつ枯れるとも知れず、涙は後から後から流れつづけた。


 だが、彼から投じられたことばはたしかに真実であり、真実だからこそそれは、振り下ろされた鉄槌のように己の深層に達したのだと、そう思った。


 礼教の玉条を(のり)として、痛みなど初めからなかったようなふりをしてきた代償を、今この身体に払わせているのだろうと思った。


 生涯唯一の伴侶だと信じてきた相手の口から、そなたの気性のある部分が我慢できない、と言明されたことはたしかに悲しかった。

 悲しかったが、いま崔氏の胸を去来するのはそんな思いではなく、髪を結ってやることもできぬうちにこの世を去った金瓠の、驚くほどに豊かで愛くるしい表情だけだった。


 その小さな口は、父さま母さまと発することもまだできなかったが、父母から注がれることばの意味はわずかながらも解しており、自分の名を呼びかけられるたびに丸々した手をぱたぱたさせたものだった。


 あんなに小さかったのに、あの子はたしかにすでに父母を()り、その心情を識っていた。

 あんなに小さかったのに、父母にしか見せない安心しきった笑顔があったのだ。

 曹植が哀辞のなかで描き出しているとおりだった。


(あんなに小さかったのに)


 すくい上げた水が指の合わせ目から滴り落ちるように、そんなことばがふと唇からこぼれかけた。

 反射的に口をつぐんだものの、喉の奥に飲み込んだそれは却って深く記憶のひだに潜り落ちる。


「どうして」


 崔氏はもはや息をすることさえ耐えがたくなり、両手で顔を覆った。

 いつのまにか足元からも力が抜け、床に膝をついていた。


「どうして、もういないの」


 決して口にするまいと思っていた問いを、いちど声に出してしまうと、あとは歯止めがきかなくなった。

 嗚咽と哭声が相混じり、呼吸を妨げるほどの荒ぶる奔流となって、喉の奥から絶え間なくこみあげてきた。

 悲しみというよりも行き場を失った怒りに似た何かが、かろうじて力の残った両腕を突き動かし、壊れた細工のように床を打ち据えつづけた。



 



「血が出ている」


 そっと手をつかまれ、ぼんやりと目を挙げると、曹植もいつのまにか床に膝をついていた。

 その声にはすでに怒気はなかった。


 彼はやがて、向かい合うように妻の身体を抱き寄せ、その背にためらいがちに手を置いた。


「悪かった」


「なぜ、謝られるのです」


 崔氏はかすれた声で呟いた。


「子建さまの仰せはまちがっておりません。

 あの子がわたくしにとって世界の中心だったことも、―――わたくしが欺瞞を欺瞞と思わず生きられる女であることも、本当のことです」


「―――違う。俺は、そなたの気性が我慢ならぬと―――礼法に殉じて()を殺すところが我慢ならぬとは言ったが、あれは本心ではない。

 いや、一面では本心だが、そなたの同じその部分を、得がたいと思ってもいる。

 俺にはできないことだからだ。


 俺は、自分の(こころ)にだけ忠実だった。

 金瓠を失ってからは、少しでも長く、この邸から離れていたかった。

 そなたひとりをここに放り出して、すまなかった」


 崔氏は首を小さく振り、うつむけた顔を曹植の肩に載せた。

 そして彼の背に手を伸ばし、自分でも驚くほどに堅くきつく力を込め、長く彼を抱擁した。


「―――しないで」


「え?」


「どうか、ひとりにしないで。そばにいらして、ほしいです」


 曹植はうなずいた。

 静まりきった(へや)のなかで、ふたりはずっと動かなかった。






 長いあいだ物音を立てなかったためだろうか、無人だと思い入室してきた侍女が「あっ」と驚き去ってゆくのを気配で感じ、ふたりの間に少しだけ笑いが漏れた。

 その拍子に、崔氏の頬からまた透き通る粒が落ちた。


 その侍女がのちほど仲間に見立てを語ったとおり、その晩から臨菑(りんし)侯はふたたび夫人のもとで、夫婦の閨で過ごすようになった。


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