(三十六)無服之殤
※嬰児の死に関連する展開があります。
年が明けて建安二十年(二一五)正月の十八日、許都では曹氏が皇后の位に立てられた。
既に後宮入りしている曹操のむすめ二人のうちのひとり、曹節であった。
むろん皇帝自身の選定ではなく、曹操の意向を受けたものである。
彼は昨年十月に遠征先の経由地である合肥を発ったが、軍を鄴に帰還させたわけではなく、昨年十二月の時点で孟津に到着し、そのまま年明けを迎えた。
このまま西方に軍を進め、張魯が掌握する漢中の制圧を企図していることは、すでに丞相府関係者の多くが知るところとなっていた。
皇后の父という人臣最高の栄誉のひとつを手に入れたことも、現在の曹操にとってはさほど突出した僥倖というわけではなく、自分以外の有力者が外戚になる事態を防いだことを重視する程度に過ぎないのかもしれなかった。
とはいえ、出征軍に身を置く者であれ、あるいは鄴に残された者であれ、曹家の人間の大半はむろん、曹氏立后を朗報として聞いた。
曹操が遠征の続行を決めたことで鄴の留守を継続することになった曹植のもとにもやはり、許都の宮廷で妹の曹節が皇后に立てられたという報せは速やかに届けられた。
崔氏は帰邸した曹植の口からその報せを聞き、目を伏せたまま慶賀のことばを述べた。
曹植はうなずき、ふたりはそれ以上何も言わなかった。
彼らの長女金瓠は生後二百日に満たずして、数日前に亡くなっていた。
乳幼児にはよくある高熱を発した末の、あっけないほど速やかに訪れた死であった。
臨菑侯邸は静まり返っていた。
礼法では、八歳未満で没した者に対する服喪が定められていない。
幼い子どもは極めて死にやすいものだ、という統計的事実は、孔子や孟子の時代も同様、もしくはより深刻であったためであろう。
乳幼児の死を悼むために日常に支障を来たすのはむしろ礼に反する、というのが儒者に限らず世人の認めるところであった。
「無服之殤」すなわち八歳未満で没した者への哭礼は、その生きた月数を日数に置き換えておこなうことになっている。
金瓠は足かけ七か月の生だった。
ゆえに、七日間の哭礼を終えたならば、臨菑侯夫妻は日常に戻るべきであった。
少なくとも崔氏は、自らにそう言い聞かせた。
(わたしたち夫婦だけが、世の摂理を免れうるわけはないのだ)
世の婦人の大半は、生涯に数人出産すればそのうちのひとりふたりは嬰児のまま失うのが定めである。
それは自明のことがらだった。何も珍しいことではない。
ほかの婦人たちはみな、同じ経験に身を置き、そして乗り越えている。
(わたしだけではない)
どこか焦点の定まっていない面持ちのまま、崔氏は胸中で繰り返した。
金瓠はおそらく、もともとの体質が丈夫ではなかった。
それが二百日近くまで生きられたのは、丞相一門の嬰児として折に触れ最高水準の医療を受けられ、寒暖や飢餓に苦しめられることもなかったからだ。
あの子が庶人の家に生まれたならばもっとずっと早くに息絶えていたはずだ。
だから、二百日近くも母親として一緒にいられたのは、とても恵まれていることだ。
(わたしは恵まれているのだ)
崔氏は胸中でそううなずいた。
生後百日すら迎えられずに子どもを失う母親はたくさんいる。
自らの命を賭す思いで生み落とした赤子が一度も息をすることなく、死産に終わった母親もたくさんいる。
だから、自分はとても恵まれている人間だ。
曹植が深い親愛を寄せている年長の友人のひとりに、王粲という官僚がいる。
彼はかつて、戦乱で荒廃し白骨に覆われた長安を脱して南のかた荊州に向かう途上、長安の近郊でとある母子に行き会い、その体験を「七哀」という詩に詠っている。
母親は号泣する赤子を野辺に捨て置き、涙を流しながら去っていった。
困窮を極めていた王粲自身もその情景に耐え切れず、馬を駆り立てて立ち去ったという。
その母親は赤子を抱えたままでは到底生き抜くことはできず、彼女が死ねば赤子も生き残るすべはない。
当時の長安の状況では、このような選択に追い込まれた婦人は数え切れぬほどいたはずだ。
母親が乳飲み子を棄てるという、想像を絶するその苦痛を想えば、我が子にいつでも母乳や清潔な布や沐浴の湯を与えることができ、最期の一刻まであの小さな身体のそばにいられた自分などは、信じがたいほど幸運ではないか。
がらんとした閨で、窓の外を眺めながら、崔氏は立ち尽くしていた。
義母卞氏が鄴にいてくれたならば、息子の妻として身辺で奉仕するという務めに没頭することもできたが、あいにく卞氏もまた曹操に従って出征の軍中に身を置きつづけている。
清河にいたころは、あるいは鄴や許都で叔父夫妻のもとにいたころでも、使用人の数が十分でない家中は常に何かしら人手を必要としていた。
曹植のもとに嫁いでからは、大勢いる使用人の適切な配置や指示など家政全体に目を配ることが主な務めとなり、それはそれで重大な責任であったが、自身の手足を労する務めとして残されたのは、貴賤を問わず婦人の本分とされる機織りくらいとなった。
金瓠が生まれてからは、むろん乳母や子守女のおかげでずいぶん助けられたが、それでも朝から晩まで彼女の世話のために体力と時間を注ぎ、出産前よりもはるかに忙しくなった。
いまは何もない。この閨にあるのは空白だけだった。
金瓠の死を迎えて以来、曹植は夫婦の閨で就寝することがなくなった。
朝はこれまでどおり早くから勤めに出かけ、帰邸してからはほぼ書庫か書房で過ごし、結婚前から使っている自分の牀で眠るようになった。
邸で夕食を摂ることも少なくなり、勤めが終わった後に友人と囲む酒肴で済ませることも多いようだった。
無理もない、と崔氏は思っている。
この邸は、とりわけこの閨は、金瓠を思い出させるもので溢れている。
むろん、嬰児用の牀も玩具も襁褓もすべて別室にしまいこむか廃棄を終えているが、閨の壁にも天井にも、あるいは空気にすら、むすめが息をして泣き笑っていた名残がそこかしこに漂っていた。
(だから、子建さまがわたしから遠ざかられるのも仕方ないことだ)
と崔氏は同時に思う。
彼女にとって金瓠と過ごした時間は必ずしも曹植と結びつくものばかりではないが、彼にとってはそうではない。
曹植にとって、金瓠と過ごした時間の大半は、かたわらに崔氏がいる時間だった。
だから、そばにいらしてほしい、と請うなどもってのほかだ。
それぞれで喪失を受け止め、自ら癒してゆくしかないのだ。
彼女はそう考えるようにしていた。
だが、これ以上求めるまいとは思っても、どうしても曹植がうらやましいことがある。
彼には家の外に勤めがあり、そして多くの友人たちとの交遊があり、それに没頭している間は家のことから遮断されていられる。
崔氏には家のことしかない。
かといって、清河の本家にいたころのように、四季の移ろいに従って農事に追われることもない。
いまの崔氏には、井戸の水汲みや干し草運びのような力仕事―――疲労のあまり何も考えられないまま眠りに就ける重労働のほうが望ましかったが、列侯夫人という身分の枠を踏み越えるような行いをすれば、夫である曹植の体面を汚すことになってしまう。
崔氏は久しぶりに織機の前に座った。
作動を確かめてみようと手足を動かす前に、この織機で金瓠のための襁褓を何枚も仕立て上げたことが思い出された。
それはもともと予期していたことだったが、経糸と緯糸をたぐるより先に、次から次へと思い出すことがあった。
金瓠が立って歩けるようになったら着せるための衣や裙や小さな履について、この織機の前で何度も思いをめぐらしたことを思い出した。
幸福な時間だった。
崔氏は踏み板から足を離した。
それ以上そこにとどまることはできなかった。