(三十五)克己復礼
「子建さまは極力それを―――そのかたへの思慕を、わたくしに見せないように努めてくださっていると思いますが、やはり、つらいこともあります。
だから、それをどう乗り越えるか、わたくしが節さまにお伝えできるようなことは、あまりないのですが―――」
崔氏はことばを切った。
青白色を帯びたあの玉環のきらめきが、冬日のなかにふっと浮かんだように思われた。
「子建さまが大切にされているもののことは、できるかぎり、わたくしも大切にしようと思っております」
そう、と曹節はうなずいた。そして、彼女も手を強く握り返した。
「わたしも、そうできればと思います。
許都に戻ったら―――皇后に立てられて後宮の主となったら、陛下が心置きなく伏皇后を偲ぶことができるように、手を尽くしたいと思います」
「ご立派なお心映えでいらっしゃいます。
子建さまも、きっと誇りに思われると思います」
「時々つらくなって、また泣いてしまうかもしれないけれど。
―――でも、いちばんお辛いのは、陛下だから」
曹節は目を伏せて言った。そのあとしばらく、唇を結んでいた。
「義姉さまは、いまは赤ちゃんのことが何より大切だと思うけれど、ご自身も大切になさってくださいね」
「ありがとうございます」
「子建兄さまは昔からだらしないし、そのうえ気が多くて、つくづくどうしようもないかただけど」
「ま、まあ、そんな」
「義姉さまのことも、―――義姉さまのことは、本当に大切に思われているから。
それはお忘れにならないで」
崔氏は思わず目を伏せ、唇をつぐんだ。
頬がたちまち熱くなってゆくのが、いっそう恥ずかしい気がした。
「そういうところ」
「え?」
「そういう、すぐ恥じらうところも好きだと、兄さまが」
「それは、どういう―――どうして子建さまが節さまに、そんなことを」
「後宮に上がる前、兄さまが宜男の花を持ってきてくださったあのとき、まだ不機嫌そうだったけれど、“なぜあれを娶ることを決めたか教えてやる”と、つらつらと話し始めたのです。
というか、義姉さまのいいところを延々と挙げていったの。
こちらが訊いてもいないのに。
―――いいえ、そもそもは、わたしが義姉さまに、あんなにひどいことを申し上げたからなのだけど」
そして曹節は膝の上に両手を置き、深く頭を下げた。
「いまさら取り消せないけれど、心からお詫びを申し上げます」
「いいえ、節さま、まことに気にしておりません。
―――型通りの言い方だと思われるかもしれないですが、本当です」
ふふ、と曹節は小鳥のように笑った。
「それも」
「え?」
「“型通りにふるまうことが―――礼節をふまえて自分を抑えることがどれだけ大変だと思う”と、あのとき兄さまはおっしゃったのです。
“おまえのように言いたい放題やりたい放題のやつは本気であれを見習え、俺もだが”と」
曹節は言いながら笑い始めた。
気恥ずかしい思いに圧されつつ、崔氏も小さく笑った。
「あるがままの心に打ち勝って礼節に立ち戻る―――克己復礼の精神からいちばん遠いところにいるのは、子建兄さまなのに」
「ええ、それは否定いたしません。
でも―――」
「でも?」
それを含めて、子建さまのことがとても好きです、と崔氏は心の中で思ったが、さすがに口には出せなかった。
しかしおそらく、曹節は分かっているのだ。
義姉の思いを見越したかのように、それ以上は問い返さずに話題を転じた。
「たしかに、兄さまのおっしゃることは真理ではあったのです。
礼節の、克己復礼の大切さは、後宮に入った後、わたしも身を以て知りました」
「後宮で?」
「伏皇后は、わたしたち姉妹のことを最初から最後までお好きではなかったと思うけれど―――わたしたちの背後にいるお父さまをはっきり憎んでいらしたと思うけれど、それを態度に示されることはありませんでした。
わたしたち姉妹について、皇帝陛下に何かを吹き込むということもなさいませんでした。
とりたてて友好的ということもなかったけれど、わたしたちに不安や不足がないかを常にお尋ねくださり、品位を保ってお付き合いくださいました。
それが礼節だと思います。
―――わたしが逆の立場だったら、同じようにふるまうのはとても難しかったと思います」
「節さま」
「相手の寝床に、虫とか鼠の死骸くらい放り込んでおくかも」
「節さま!」
冗談です、と言って曹節はまた笑った。
そして笑いを収めると、空を見やりながらぽつりと言った。
「今度は、わたしがそのようにあらねばと思います」
崔氏はふたたび、彼女の手の上に自らの手を重ねた。
お強くなられますように、と心から願った。
曹節はその晩、帰邸してきた曹植に向かって、自分から懐妊のことを話した。
崔氏の予想どおり、彼は手放しで喜色をあらわにした。
曹家が外戚の地位を固めたからではなく、血のつながる兄としての喜びだった。
だがつづいて、やや思案するような顔になった。
「そうなると、年明けに許都へ戻る道中には、しっかりした侍医をつけねばなるまいな。
車ももっと安定した、調度の行き届いたものにして、侍女や護衛の兵も増やしたいが―――」
曹植はそこで言いよどんだ。
実のところ、現在の彼の立場であれば、鄴で最高の名医を確保したり侍女や護衛の数を増減させたりするのは、何も難しいことではない。
問題は、曹節が許都から鄴へ来たのが非公式であったように、鄴から許都へ戻るのも秘密裏であらねばならないということである。
車や馬を新調するのはともかく、人間を動かすとなると、極力内輪の信用できる者だけに限らねばならない。
単に「曹家に忠実な者」ならいくらでもいるが、そういう者たちの最終的な忠誠はむろん曹操に捧げられており、曹節が自分の判断で後宮を出たことについて曹操の耳にのぼすことに躊躇はないであろう。
それはたしかに懸案事項だと崔氏も思った。
だがその数日後の夜、曹植は晴れ晴れとした顔で邸に帰ってきた。
「徳祖どのが、手を貸してくださると」
「徳祖どのって、兄さまがよく書簡に書いていらした、楊脩どの―――楊主簿のこと?」
「そうだ。今日会って話をしていたら、俺に悩みがあるのを察してか、何かできることはないかと申し出てこられた。
徳祖どのなら漏洩することは決してないだろうと思って、おまえをどう鄴から許都へ送り届けるべきかについて相談した。
そうしたら、許都のご実家から信頼できる私兵と侍女と医師とを鄴へ呼び出して、おまえに付き添わせてくれるということになった。
徳祖どのの手配されることなら何も心配ない」
「楊太尉の―――先の太尉のお子がご厚意でしてくださることなら、たしかに間違いはなさそうね。
陛下も楊太尉には篤い信頼を寄せておられるようです。
太尉が致仕なされた後でさえ」
曹節もだいぶ乗り気になったようであった。
ふたりのかたわらで聞きながら、崔氏は少し戸惑っていた。
何か理由があるわけではないが、楊脩が絡むことになると、ほんの少しだけ不安になるのだ。
かといって、自分がめぼしい代替案を出せるわけではない。
それに少なくとも、楊脩は許都にも鄴にも確固とした基盤をもっている。
むろん本人が旅程に付き添うわけではないにしても、的確な差配を尽くして曹節を安全に、そして秘密裏に送り届けてくれることはまちがいないだろう。
就寝前に閨で夫婦ふたりだけになったとき、崔氏はそれとなく曹植に問いかけた。
「楊主簿さまは、子建さまのご様子を本当によく観察して―――お目を配っていてくださるのですね」
「そうなのだ。
俺のことは何でも分かってくれているかのようだ。とても安心できる」
曹植はそういって笑った。
幸福な童子のような、屈託のない笑みだった。
崔氏も笑みを返した。そして、
(とても、できない)
と思った。
楊脩にこれほど無条件の信頼を寄せている夫の耳に、あのとき自分と楊脩が交わした会話を伝えることなど、とてもできない、と思った。