(三十四)報い
「これは罰なのだと、思うのです」
曹節がぽつりと漏らした声に、崔氏は意識を引き戻された。
「罰、ですか」
「あんな嘘を―――婚前に身籠ったから堕ろしたいと嘘をついて、義姉さまのお気持ちを弄んだから」
「節さま、そんなことはありません。そのお考えは間違っています」
「いいえ、罰なのです。だからいま、我が身のこととして子堕ろしを考えている」
「まさか、それは―――」
「陛下に望まれていない子なら、堕ろしたほうがましだと、そう考えてしまうことがある。
でも、産みたいのです。この子に会いたい」
曹節はふたたび顔を伏せ、子どものようにしゃくりあげ始めた。
崔氏はその背中をずっと抱いていた。
曹節の嗚咽がようやく落ち着いた後、崔氏は彼女をふたたび石座に座らせ、自分もすぐ隣に座った。
そして、固く握りしめられた義妹の手をそっと握った。
「わたくしは陛下を存じ上げませんので、無責任かもしれませんが―――陛下も、ご自身のお子にお会いになりたいお気持ちはおありではありませんか。
身籠られたお子は、義父上さまの外孫ではありますが、陛下にとってはまず、ご自身と節さまのお子です」
曹節はうなずかなかったが、否定もしなかった。
「まして、節さまは陛下のお心を慮って、自ら後宮を出立されたのです。
そのお気持ちの深さは、陛下もよく分かってくださったのではないでしょうか。
自分が最も苦しいときに示された愛情や配慮は、忘れがたいものです」
曹節は黙って石卓に目を落としていた。
突然、亭の屋根より高い上空から、耳を衝くような甲高い声がした。
鳥たちの喧嘩だろうと思われたが、どこか人間の声めいたところがあったので、ふたりで少し笑った。
ささやかながら義妹が笑顔を取り戻したことに、崔氏は救われた思いだった。
「今回、鄴に戻ってきたのは」
鳥たちの騒擾が収まった後、曹節がぽつりと話し始めた。
「許都を離れるため、というのもあるけれど、子建兄さまと義姉さまにお会いしたかったというのも本当なのです。
義姉さまとはとくに、お話したかった」
「まあ、―――ありがとうございます」
曹節はそれから黙り込んだ。
何かを言いかけては口ごもる、といったことを繰り返した。
だがついに、意を決したように口をひらいた。
「あの、誤解しないでいただければと思うのだけど―――義姉さまにお伺いすること自体に、深い意味はないのだけど」
「はい」
「好きなひとに忘れがたいひとがいることを、どうやって乗り越えたらいいのでしょう。
もちろん、取って代わるということではなく、自分がどうやって乗り越えるかという意味です」
崔氏は反応するまでにしばらく間を置いた。
時間を要したのは、回答を組み立てる以前に、曹植が甄夫人を愛していることを義妹は知っているのだろうか、と息を呑んだためだった。
もし知らないならば、絶対に知らせないままにしなければならない。
三兄が長兄の妻に対して人倫に反する思いを抱いていると知れば、いくら曹節がやや規格外のむすめだとはいえ、大きな衝撃を受けるだろう。
(―――でも節さまは、わたしと話をしたかったとおっしゃられた)
ならばそこに何らかの意味はあるはずなのだ。
どう答えるべきなのだろう。
一般論としてあたりさわりのないことを言えばいいのか。
(でもそれでは、誠実にお答えしたことにならない気がする)
悩んだ末に、崔氏は一種の賭けに出た。
「節さまがいまおっしゃった、好きなひととは皇帝陛下のことで、忘れがたいひととは伏皇后のこと、そうですね」
「はい」
「わたくしの場合、好きなひととはもちろん子建さまですが、子建さまにも忘れがたいひとがいると、そういうことですね」
「いえ義姉さま、ちがいます!
いまの問いはどうか、お忘れください。なかったことに」
彼女にしては珍しく、曹節はうろたえた声をあげた。
「いいえ、節さま、これは単なる確認なのです。
―――わたくしも、子建さまにそういうかたがいらっしゃることは、存じ上げております」
「―――そう、なのですか」
「ただ、わたくしが存じ上げているそのかたと、節さまが想定されている婦人が異なる場合、その、少し困ったことになるので、確認させていただきたいのです」
「―――分かりました」
「では、改めてお伺いしますが、子建さまには忘れがたい婦人がいらっしゃると、節さまはお考えなのですね」
「―――はい」
「そのかたは、ご存命でしょうか」
「ご存命です」
「子建さまよりお年は上ですか、下ですか」
「上です」
「正確には、いくつ年上ですか」
「十歳ほどかと」
「子建さまとそのかたが初めてお会いになられたのは、わたくしと結婚するより前ですか、後ですか」
「前です」
「おふたりがお会いになられた正確な年は、分かりますか」
「建安九年だと、思います」
建安九年は鄴城陥落の年である。
曹家にとっては本拠地を移す契機となった大事件であるからこそ、まだ六歳ほどであった曹節もその年を肝に銘じているに違いない。
あるいは、長兄曹丕の婚礼の年として記憶に残っているのだろうか。
いずれにしても、“その婦人”に対する曹植の思慕に曹節が気づいたのは、もっと後年だったことであろう。
安堵といってはおかしいが、崔氏はふっと息をついた。
「ではおそらく、そのご婦人は、わたくしが存じ上げているかたと同じかたです。
―――近くにいらっしゃるけれど、決して子建さまの手には入らないかた」
「はい、―――兄さまと結ばれることは決してないかたです」
ふたりの間にしばらく静寂が降りた。
亭からみえる園林の輪郭に、穏やかな冬の光が降り注いでいる。
「あの、義姉さまは」
曹節が遠慮がちに口をひらいた。
「ご結婚前から、子建兄さまの、―――そのかたへのお気持ちについて、ご存じだったのですか」
「はい。結婚前からというか、清河で初めてお会いしたそのときから、ということになります。
少し込み入った経緯があるのですが、―――もし子建さまのその思慕がなければ、わたくしが子建さまと邂逅してことばを交わすことも、ございませんでした」
「そうなのですか。
では、その、―――納得したうえで、嫁いでこられたということですか」
「はい」
「おつらくはないですか」
曹節の声が硬さを帯び、崔氏は目を上げた。
「単に家長同士が決めたのではなく、義姉さまが兄さまを好きになられて結婚なさったのなら、なおのこと。
わたしが義姉さまだったら、とてもつらい―――毎日そのことを考えてしまうほど、つらいです」
ああ、と崔氏はふたたび目を伏せた。
(節さまは、陛下のことを、本当に愛するようになられたのだ)
そして義妹の手を改めて強く握った。