(七)放蕩公子
崔氏はすぐにはことばが出てこなかった。天下の丞相の子息がこんな田舎の農道を供も連れずにぶらついているというのがまず信じられないが、しかし裏付けとなる事実がないわけでもなく、だからこそ声が出なかったのだ。
地味に抑えられてはいるがよく見れば驚くほど上質な彼の身なりや、無造作でありながら典雅さを滲ませる挙措に加え、先ほど『楚辞』を朗詠していたあのようすは、あたかも大詩人屈原の悲傷をその身でもって再現しているかのような、余人には追随できないふしぎな臨場感を漂わせていた。
もちろんそれだけで彼が不世出の詩才を有するなどという証明にはならないが、崔氏の念頭からはどうしてもあの面影が去らないでいる。
天子を推戴する許都に丞相府を開くとともに、いままた鄴の本拠地化を着々と進め天下を睥睨する丞相曹操は、自身も詩人として名声を博しているが、彼の三番目の息子―――正しくは五男であるが、上のふたりが早世し、また曹操の現在の正室卞氏の子としては三番目のため、世人からは往々にして三男と目される―――曹植、字子建はその卓越した文才をほんの幼いころから現し始め、長じた今では鄴文壇の押しも押されもせぬ寵児であることは広く知れ渡っている。
そしてこの正月に爵位を賜った丞相の三人の子息のうち、平原侯に任じられたのが他ならぬ曹植なのだった。
崔氏はまだ狐につままれたような気持ちを残しながら言った。
「―――このたび封じられたご子息がたは、実際にはご領地に赴任されぬとうかがっておりました」
「そのとおりだ。旅行の目的地はもともと平原ではなかった。
そもそもは子桓(曹丕)兄上が鄴以北への旅游を思い立たれたので、俺は頼み込んでついてきた口だ」
「子桓さまと申されますと―――丞相のご長男、五官中郎将さまでいらっしゃいますか」
「そうだ。俺が平原侯の爵を賜ったのと時を同じくして官を拝された。
すぐ上の子文(曹彰)兄上も誘ったのだがな、“軍旅ならともかく、遊覧のための移動など意味がない”とにべもなかった。
鄴を出て当初は漳水沿いに北上したのだが、曲周を過ぎたあたりで清河河畔に移った」
「曲周と仰せられますと、両水の流れが最も近づく地点ですね」
少し記憶をたどってから崔氏は応じた。曲周はここ清河国の西隣、鉅鹿郡に属する県である。
「そうだ。清河の流れ自体は名前どおりには澄み切らず残念だったが、河畔の景色は思いのほか清しかった。とりわけ子桓兄上はことのほかお気に召されてな。それからの旅程はずっと清河の沿岸か河下りだ。
そしてちょうど、この東武城の県境にさしかかったあたりの清河の津で、俺は封じられたばかりの所領のことを思い出したのだ。東武城を東に横断すれば平原はすぐそこだとな。むろん、実際の統治は相(郡太守や県令に相当する地方官)に任せているが、せっかくだから列侯になった気分とはどんなものかと思って、視察のひとつもしてみたくなった」
「五官将さまに、そうお申し出を?」
「ああ、ご同行を請うたのだが、“そんな草深い土地に足を踏み入れたいならひとりでゆけ”と一蹴された」
「では五官将さまはまだ、他のご一行とともに清河を船で下っておられるのですね」
「そのはずだ。さすがに、下るといっても河口まではゆかれまいが。
鄴には政務も控えていることだし、漳水と交わる手前―――南皮あたりまで差し掛かったら舳先を返されるだろうと思う」
「―――そういえば、平原侯さまのご家臣や護衛のかたがたはどちらにおいでなのですか。御身ひとつで船を下りられたわけではございますまい」
「そのうち合流する」
「そのうちとは」
「最近はあれらも俺を追跡することに長けてきたからな。今回は半日ぐらいで見つけだされそうな気がする」
「それはつまり、ご家臣がたをまいてこられたということですか」
「そうだ」
曹植は朝夕の習慣を語るように淡々と答えた。崔氏は目を見開いたまましばらくはことばもない。
「―――大変なご心配をなさっているはずです。
おもてなし申し上げられぬのは心苦しいことですが、拙宅などにお寄りになってはいけません。早く平原の県城に通ずる本道のほうへ戻らなくては」
「心配か。ここいらのようなのどかな郷村地帯へ迷い込むのならば、あれらとてさほど焦燥をおぼえることはないと思うがな。
少なくとも、鄴の城中で盛り場にもぐりこんだときのようなことにはなるまい」
「盛り場」
「楽しいところだぞ。闘鶏や闘犬を見たことはあるか」
「いいえ、まさか、そんな」
「そうか。女子はどうしても外出に制限があるからな」
「制限がなくともそのような場所にはまいりません」
「そなた、いかにも季珪どのの身内らしいことを言う」
困惑しきった崔氏の表情に気づかぬかのように、曹植はふたたび愉快そうな口調になった。
「酒楼に闘鶏、賭博、曲芸、語り物―――どこを見渡しても活気に満ちて楽しかったが、そのぶん士人の流儀とは全くちがう、気風の荒い場所だったからな。俺の身に何かあったら属官たちの咎になるわけだから、あのときはさすがにいささか反省した。
子昻らには父上にさえ言われたことのない口調で叱責されたが、それもいたしかたあるまい」
「子昻さまとは」
「家丞を務める邢顒という者の字だ」
「邢子昻さま……」
崔氏が少しく考え込むように視線を伏せたのを見て、曹植もふと思い出したような顔になった。