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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
159/166

(三十三)慶事

 再開がだいぶ遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。

 中断期間が長い作品にもかかわらず通読してくださる方も時々いらっしゃったりして(同一の方かどうか分からないので、憶測ですが)、とてもうれしいです。

 「伉儷」篇はあと8話になりますが、よろしければお付き合いください。












 やがて十二月となり、臨菑(りんし)侯邸の中庭にあるささやかな池や水渠にも氷が張るようになった。

 それでも、雨が少ない河北の常として、真冬でも淡い陽光に満ちて晴れわたる日は少なくなかった。


 金瓠がちょうど深い眠りに落ちる昼下がりに、崔氏は乳母に見守りを任せ、樹木の枝葉の付きぶりなどを確かめながら庭の散歩をすることが日課であった。

 少し前までは単身でそうしていたが、いまでは義妹が付き合ってくれるようになった。


 金瓠の世話は時に応じて乳母や子守女に任せられるので、曹植が登庁している日中に曹節とふたりきりで過ごすこと自体は難しくない。

 だが、使用人からの諸連絡や指示を仰ぐ声が日中は絶えず崔氏のもとにもたらされるため、本当の意味で落ち着いてふたりで会話できるのは、この散歩の時間くらいかもしれなかった。


 その日もいつものようにふたりで連れ立ち、時折り空や鳥に目をやりながら他愛もない話をしていた。

 (あずまや)に向かって歩いていたとき、ふと曹節がしゃがみこみ、口元を押さえかけたかと思うと、嘔吐をはじめた。

 驚いた崔氏は膝をついて傍らに寄り添おうとしたが、曹節は片手を振ってさえぎり、面を伏せてそのままにしていた。


「何ということ、―――召しあがったものがよくなかったのでしょうか。

 いま、厨房で調べさせます」


「いいえ、そうではありません。ごめんなさい。ご心配を」


「めっそうもございません。

 ともかく、腰を下ろしてお休みになられませ」


 そう言って崔氏は義妹の手を取って肩を貸し、亭のほうへいざなった。

 そして亭の石の椅子に腰かけたとき、ふと思い至ることがあった。


「―――節さま、ひょっとして、ご懐妊でしょうか」


 曹節は義姉から渡された手巾で口元を拭いていたが、目を上げないまま小さくうなずいた。


「まあ、なんと―――おめでとうございます」


「これまでは自室にいるときしかつわりはなかったのだけど、今日は突然こうなってしまって、ごめんなさい」


「謝ったりなさるようなことではありません。

 子建さまはこのことをご存じなのでしょうか。さぞかしお喜びに―――」


 崔氏は感激に打たれ上気した顔でそこまで言ったものの、ふいにことばを切った。


「陛下は、皇帝陛下はご懐妊をご存じなのでしょうか」


「いいえ」


「節さまは許都を出発された後で、ご懐妊に気づかれたのですか」


「いいえ、後宮にいるときに気づいていました」


 そしてしばし口をつぐんでから、つづけた。


「伏皇后の、いわゆる(・・・・)陰謀が露見し、暴室へ送られたころに。

 ―――皇后さまと皇子さまがたが殺された、その直前に」


 崔氏は問いを発しようとしかけたまま硬直した。

 息を詰めたように義妹を見守るしかできなかった。


 曹節はなお顔を上げなかった。

 申し上げられなかったのです、と彼女は言った。


「申し上げたら、陛下はそれが慶事だというふりをしなくてはならない。

 わたしがお父さまのむすめだから、なおさら」


 ようやく顔を上げた曹節は、何かが決壊したように泣きだした。

 喉の奥からしぼりだすように、かすれた声を発した。


「妻子の死を悼むことすら、許されていらっしゃらないのに」






 崔氏は黙って義妹を見つめていた。

 そして、立ち上がって義妹のそばに行った。

 彼女が膝を折って義妹に目線を合わせるより前に、曹節はおもむろに立ち上がり、長身の義姉に強く抱きついてきた。

 これほどの力がおありだとは、と崔氏が驚くほどに緊密な抱擁だった。


 崔氏は曹節の背中に手を置き、ゆっくりさすりながら、嗚咽が収まるまでその震えを感じていた。


「ごめんなさい。取り乱しました」


 長い空白のあと、曹節はようやく小さな声で言った。

 顔はまだ崔氏の胸に伏せたままだった。

 崔氏は静かな声で言った。


「陛下は、節さまにはもう、大切なおかたなのですね」


 はい、と曹節はうなずいた。


「だから、とてもつらいのです。何もかもが」


 そして付け加えた。


「わたしが特別に寵愛を受けているわけではないのです。

 陛下がわたしや憲姉さまの房に足をお運びくださったのは、それがいわばお父さまへの約束だからだし、わたしが先に陛下のお子を身籠ったのも、単に偶然なのです。


 でも陛下は、幼いころから大変なご苦労をなさってこられたためか、身の回りの者へのご配慮は温かく、わたしにも何も含むところがないかのように接してくださり―――お慕いするようになりました」


「そうだったのですね」


「義姉さまがおっしゃった、“すばらしいこと”の意味が、ようやく分かったのです」


 そう、と崔氏はうなずき、義妹の背中を抱きしめた。

 好きになった男の子どもを産むのはすばらしいことだと、後宮に入る前の少女だった義妹に話したことがある。

 その代えがたい喜びが彼女にも訪れたなら、それは確かに祝福すべきことだった。

 だが義妹は、そのためにこそ苦しんでもいる。


「義姉さま、どうしたら、どうしたらいいの」


 心が均衡を失ってゆくようすで、曹節は崔氏の目を下から覗き込んだ。


「陛下はおそらく、わたしとの子を―――お父さまの血を引く子は望んでおられない。少なくとも、いまこの時になど」


「節さま、そんなことは」


 崔氏はそう口にはしたが、気休めにもならないことは分かっていた。

 曹節の考えはおそらく当を得ている。


 即位以来の嵐のような歳月を絶えず寄り添って生き抜いてきた伏皇后さえも守れなかったという今上帝の心境は、他人に推し量れるはずもない。

 半身をもがれたようなその喪失を余人が埋め合わせできるはずはない。

 まして、その苦しみをもたらした男が送り込んできたむすめを皇后の地位に引き上げ、その間に子女を儲けることなど、本心から望んでいるはずはなかった。


 義妹の芯の強さを、そしてなかなか素直に見せない情の深さを崔氏は知っていた。

 だからこそ、もし曹節がこのあと実際に皇后に立てられれば、彼女にはいっそう耐え難い状況が始まるのではないか。

 崔氏は胸が塞がれる思いだった。


 決して口にしてはならない憶測だが、―――伏皇后による暗殺計画自体はおそらく、何年も前から丞相府側の密偵に把握されており、秘密裏に曹操の手元に届けられていたのではないか。

 昨今の情勢に鑑みれば暗殺が実行に移されることはないと了解した上で、曹操は最も効果的な時機を選んでその陰謀を漏洩し、公に露見させた―――真偽は知るべくもないが、その可能性は排除できない。


 曹節もまた、このように考えている可能性がある。

 そしておそらく、皇帝自身も。


(もしもそうならば、節さまのご心情はいかばかりか)


 崔氏は目を閉じた。まだ少し荒い義妹の呼吸が伝わってくる。

 曹節はおそらく、自分の、自分たち姉妹の後宮入りと伏皇后の死には関係があると感じている。


 自分がある婦人の死因を作ったと知りながら、その婦人を深く愛していた男の正妻の地位に、その男や自分の意思とは関わりなく引き上げられるのである。

 曹節が皇帝をすでに愛しているのならなおさら、皇帝と今後どのような関係を築いてゆけるというのか。

 崔氏にはかけられることばもなかった。


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