(三十二)予期せぬ再会
「子建兄さま、崔の義姉さま、お久しぶりです」
「節、おまえがなぜ、鄴にいるのだ」
「お会いしたいと思って。お元気そうで何よりです」
「それは、おまえも元気そうなのはよかったが―――」
長らく会えないことを覚悟していた肉親に久しぶりにまみえたことで、曹植はなかば安堵したような表情を浮かべていたが、つと思い直したように口調を改めた。
「―――どういうことなのだ。いまは鄴に父上も母上もおられぬというのに」
「ええ、帰寧して両親に挨拶をするという理由が使えないから、非公式に後宮を出ました」
「非公式に!?」
もっぱら人の度肝を抜く側の曹植にしては珍しく、驚きと憤りがないまぜになった声を上げた。
「つまり、皇帝陛下にも無断でということか」
「いいえ、陛下にはお許しをいただきました。
一部の女官たちに伏せているというだけ」
「一部の女官とは」
「わたしたち姉妹につき従って後宮に入ってきた者たちのことです。
つまり、我が曹家の息がかかっている者たち」
「どういうことなのだ。
―――そういえば、憲もおまえに同行して鄴まで来ているのか」
「いいえ、わたしひとりだけです。
憲姉さまには、わたしが病気で人に会えないということをその女官たちに納得させるために、わたしの房で看護のふりをしてもらって、口裏を合わせてもらっているの」
「いよいよ理解できん。
―――いや、父上母上のご健康が思わしくないため鄴に里帰りするという言い分が使えないから、記録に残さないためにも非公式に後宮を出てきたというのは、まだ理解できる。
だが、なぜ陛下がお許しを出されるのだ。
陛下としても、父上との関係維持を思えば、お前が不用意に後宮を出たりすることを望んでおられぬだろう。道理に合わない」
「―――お分かりになりませんか」
「何だというのだ」
「わたしが許都を離れている間は、皇后の位を空けたままにしておけるからです」
曹植は黙って妹を見つめた。
曹節は目を伏せ、彼の足元のあたりを見ている。
「陛下が、そのようにおっしゃったのか」
「もちろん、ちがうわ。
陛下もわたしも―――後宮で長いあいだ伏皇后に忠実にお仕えしてきた者たちも、誰もそんなことは明言していません。
ただ、あのあと」
曹節の声が初めて小さくなった。
「―――伏皇后が、暴室で崩じられたあと。
しばらくしてから、皇帝陛下はわたしの房にお出ましになり、おっしゃったのです。
遠征先のお父様からが使者があり、わたしを、曹節を次の皇后の位に就けるようにとの奏上であったと。
それは別に、陛下はわたしに辞退せよとお求めになったわけではなくて、ただ伝えてくださっただけなのだけど。
でもそのとき―――陛下のお顔を拝しているうちに、自分でも思いがけなかったのだけど、なぜか口が動いて、申し上げていたのです。
“しばらく―――せめて年が明けるまで、鄴に戻りたいのです”と。
そのときの陛下の表情を拝見して、わたしは正しいことを申し上げたのだと分かりました」
曹植は黙って聞いていた。
ふたりのかたわらにいる崔氏もまた、気配を消したように黙って聞いていた。
もし曹節のいうことがすべて事実ならば、皇帝にとってはおそらく、曹節の戻りは遅ければ遅いほど望ましいに違いない。
だが、曹操からすでに上表があったことを思えば、皇后をいつまでも空位にしておくわけにはいかず、どこかで区切りをつけなければならない。
伏皇后は罪人として没した以上、皇帝は彼女のために正式に服喪することはできないが、しかしせめて年内は皇后を空位にしておきたいという切実な思いは、余人にも推し量ることができる。
また、新年早々の朝廷では、公的な祝賀行事たる元会があり、これは一年で最も重要な儀礼のひとつであるから皇帝の任意で取りやめることはできないが、次期皇后になることが実質的に決まっている曹節が元日の時点で不在ならば、少なくとも後宮において新年の祝宴を張ることは休止できるだろう。
(節さまが、これほど思い切ったことをなされたのは)
陛下のお気持ちをよく考えられてのことなのだ、と崔氏は思った。
「鄴に戻りたいというのは、わたしの本心でもありましたし。
いちど皇后に立てられたら、たとえお父さまお母さまに不豫のことがあっても、そう簡単には後宮を出られないもの」
「まさかおまえ、このあと父上の軍中にも赴くつもりか」
曹操の遠征軍はすでに江東征伐に区切りをつけて合肥を出立し、洛陽近郊の孟津へと向かっている。
いずれにしても鄴からさらに南下しなければ、軍に合流することはできない。
「まさか。お父さまのご命令でもないのに自分の判断で後宮を出たなんて知られたら、烈火のごとくお怒りになるに決まっているもの」
「さすがにそれぐらいは分かるのだな」
「それに何より、立后の儀式を遅らせたことをお許しにならないでしょうね」
曹植はひと呼吸おいてから、妹の視線を正面からとらえた。
「―――つまり、おまえは年明けまで鄴に滞在する。
その間は余人に知られぬように、おおむねこの邸にいる。そういうことだな」
「ええ。兄さまと義姉さまがお許し下されば、だけれど」
「許すも許さぬも―――まさかここで放り出すわけにはいかぬだろう」
曹植は眉間をしかめながら妻のほうをみた。
問われる前に崔氏はうなずき、歓迎の意を示した。
「もちろんです。―――びっくりしましたけれど、ともかくどうかゆっくりお過ごしになってください。
許都からずっとご移動になられて、たいそうお疲れでしょう」
「ありがとうございます。突然のことで、申し訳ないと思っております」
曹節はそうやって殊勝な口調で礼を述べつつも、さして恐縮しているようすはなかった。
こういうところは実によく似ている兄妹であった。
そして待ちかねたように崔氏のほうに近づき、赤子の顔を覗き込んだ。
「かわいい」
まったくの初対面であるにもかかわらず、金瓠は上機嫌で叔母を見上げた。
赤子に和するかのように、曹節の口元もふっとほころぶ。
「元気なお子をお産みになられて、義姉さまもご健康でいらして、本当によかった。
本当に大儀でいらっしゃいました」
「ありがとうございます。お抱きになりますか」
いいのですか、と曹節は遠慮がちながらも手を伸ばし、赤子の身体を慎重に抱いた。
曹植と同じく幼い弟妹を抱き上げることに慣れているためか、しっかりした手つきだったので崔氏も安心した。
「生まれたのは、遠征軍が江東にむけて発つ直前だったでしょうか」
「はい」
「では、お父さまお母さまもこの子の顔をみることはおできになったのですね」
「はい、お忙しい中で足をお運びくださいました。
―――いまはみなさま鄴にご不在なのは、残念なことですが」
「いいえ、家のみんなの大半が遠征軍に従っていて、却ってよかったわ。
鄴にいれば、会ってはいけないと思っても会いたくなってしまうもの」
曹節は淡々とした口調でそう言ったものの、実際は肉親たち、とりわけ実母に等しい育て親の卞氏に会えないことはさぞかし遺憾であろうと崔氏には思われた。
姪の身体を腕のなかで揺らしている間、曹節は得も言われぬ幸福な表情を浮かべていたが、しばらくしてその子を義姉に返すと、あっけらかんとした口調で兄に向き直った。
「そういうわけですから、子建兄さま、空いているお部屋をお借りしますね。
もちろん、よほどのことがなければ奥向きから出ないようにいたしますから」
「好きにしろ」
半ば呆れたような顔をしながらも、曹植は決して腹を立ててはいないことは崔氏にも分かった。
大半の肉親が鄴から出払っているなかで、最も遠いところにいると思っていた妹のひとりが訪ねてきてくれ、新年をともに過ごすことになったわけである。
肉親への情愛が殊に深い彼にしてみれば、思いがけなくも喜ばしいことであるといえた。
都合により、このあと1-2か月ほど投稿をお休みいたします。
みなさま良いお年をお迎えください。