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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(三十一)許都からの報

「許都で皇后陛下が、処刑されたそうだ」


 十一月の末、帰邸した夫から聞かされたことばを、崔氏は信じがたい思いで受け止めた。

 曹植自身もどこか信じかねるように、目を背けがちに語っていた。


「正確には、暴室に送られたとのことだが、―――自害であっても、実質は処刑だ。

 所生の皇子お二人は、酖毒(ちんどく)で殺されたと」


 崔氏はことばもなく、腕の中の幼いむすめを見下ろした。

 自分の感じている恐怖がこの子に伝わらないようにしなければ、と思った。


 伏皇后にまつわる最初の一報―――十四年前に曹操暗殺を企図していたという一報は、数日前にすでに(ぎょう)にもたらされてはいた。

 それはむろん十分に衝撃的であり、ことに曹操の実子である曹植にとってはそうであった。


 父親を深く敬愛する息子として彼は崔氏の前でも伏皇后に対する憤激を率直に示したが、その曹植でさえ、実際には行動に移されなかった(・・・・・・・・・・)暗殺計画のために―――しかも十年以上捨て置かれていた机上の計画のために、今上帝と長年苦難をともにしてきた伏皇后が何らの猶予もなく死に追いやられるとは予想していなかった―――むしろ、そこまでの処断を受ける必要はない、と考えていたようである。


 夫のようすから、崔氏はそのように見て取った。

 その考えは彼女もまた同じであった。

 いまや曹操こそが実質的な天下の主宰者である以上、その暗殺を企てて無罪放免とはいかないのはもちろんではあるが、しかし十四年後のいまの時点では皇后にそれを実行できるだけの権能も環境もないのは明らかであった。


 仮に皇后に対し厳罰で臨むにしても、皇子もろとも地位を剥奪して庶人に貶すといったところが妥当な措置ではないかと、おそらく朝野の少なからぬ者が思っていたのではないか。


 そして、崔氏はふと思い至ることがあった。


「皇后が空位になったということは、じきに新しい皇后が立てられるということですね」


「ああ」


「やはり、―――妹君がたのうちのおひとりでしょうか」


 曹植は声に出さずにうなずいた。

 彼の異母妹にあたる曹憲・曹節・曹華の三人は先年、鄴の邸にいながらにして貴人すなわち皇后に次ぐ妃嬪の地位を授けられ、それから約半年後に年長のふたりは実際に後宮に納れられたのであった。


「皇帝陛下がどちらをお気に召しておられるかは分からぬが、やはり、父上のご意向を尊重なされるだろう。

 ―――おそらくは節だ。三人のなかで最も芯が強い。ときに剛毅ともいえるほどに。父上もそう評しておられた」


「節さまが」


 崔氏はつぶやき、義妹の小さな横顔を思った。

 ふたりだけで話す最後の機会となったあのとき、別れ際に抱きしめたあのときのことを思いだした。


(節さまが本当に立后されたならば)


 向かい合ってことばを交わすことはいよいよ難しく―――おそらく不可能になろう、と思われた。


「許都からの報せは、いまのところそこまででございますか」


「いや、この報せを携えてきた者がいうには、このあと続報が別の者によってもたらされると」


「続報?」


「この邸にだ」


「まあ、宮殿のほうにではなく」


 宮殿とはむろん魏公曹操の宮殿のことである。

 鄴防衛の最高責任者たる曹植の現在の主要な務めのひとつは宮殿および官署の守備であるから、遠征先の曹操からであれ許都の丞相府からであれ、鄴に向かって公的に発せられた使者は通常、彼が出勤する先の宮殿内に到着することになっている。


 なぜ臨菑侯の私邸に使者が来るのだろうか。

 崔氏がいくらかいぶかしんでいるうちに、夫婦の(ねや)の戸口に侍女が至り、来訪者があることを告げた。


「ああ、いま表の客室へ行く」


「あ、いえ」


「何だ、まだ門前なのか。邸内に通してよい」


「いえ、もうこちらに、すぐここにいらっしゃいまして」


「ここに? 奥向きだぞ」


 さすがの曹植も面食らったように聞き返した。

 丞相の一族に限らず、およそ富貴の家の妻女は邸のなかでも奥深く隔離された区画に起居するものであり、いくら丞相府の印綬(いんじゅ)を帯びた使者であっても、邸の主人の許可なくこんなところまで足を踏み入れるなどはありえない。

 人によっては激怒するような事態である。


「なぜここまで通したのだ」


「それは、その」


「わたしだから」


 うろたえ顔の侍女が答えるより先に、小柄な影がその背後からつと足を踏み出した。

 そして頭から目元近くまですっかり覆っていた(かく)(髪づつみ)を外す。

 みれば、貴人として後宮にいるはずの曹節(そうせつ)だった。


「節!―――おまえ、一体どうして」「まあ、節さま!―――貴人さま」


 曹植と崔氏の驚きの声はほぼ重なって響いた。

 金瓠は母の腕の中で、不思議そうに目を瞬いている。


 曹節をここまで案内してきた侍女は年配者で、皇帝に輿入れする前の彼女とも面識があった。

 荘重な馬車に揺られて臨菑侯邸の門前に至った際に、曹節は門番に命じてとくにこの侍女を呼びだしてもらったのだろう。

 侍女にしてみれば大変な驚愕であっただろうが、曹節本人はいままた平静な声で「ありがとう」と告げ、元の持ち場に帰らせた。


 閨には曹植夫妻と赤子と曹節だけになった。


 曹節は初めてまみえる姪の顔にやわらかな一瞥を投げたが、兄夫婦に向けるその落ち着きぶりは変わらなかった。


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