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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(三十)伏完の書簡

「ここにあるものがそうだ」


 書房に据えられたいくつもの書架のうち、ある一段を指して楊彪(ようひょう)は言った。

 書房全体のなかでは奥まったところにあるが、さほど秘匿されているわけでもない。

 つまり、たとえ客人や使用人が書簡の内容をたまたま目にしたとしても、楊彪に不都合はないということである。


 楊脩はその事実にやや安堵をおぼえたが、気を緩めることはできなかった。


「いまからすべて、目を通させていただきたく存じます。お許しを」


「構わぬが、なぜいま、(ふく)将軍の書簡を」


「しばし後に、―――おそらく年内には、お分かりいただけます」


「年内」


 楊彪はいぶかしむ思いを隠せなかった。

 しかし、父である自分からの下問に対し明確な答えを返さないということは、息子は今のところ口を堅くつぐむ決心をしているということだ、と判じられた。

 そうであるならば、これ以上問い詰めても無駄であることは分かっていた。


「書簡に目を通し、どうしたいのだ」


「少しでも誤解を呼ぶ恐れのあるものは、焼き捨てます。何卒お許しください」


「焼き捨てるだと」


「洛陽以来の苦難をともにしてこられた父上と(ふく)将軍との間にご親交が全くなかったとは、朝野(ちょうや)の誰も思わぬでしょう。

 すべての書簡を焼き捨てれば、それはそれで疑念を招きかねません。

 ゆえに、残せるものは残しておきます」


「疑念とは何のことだ。誰が疑いをかけるというのだ」


「どうか、お許しいただきたく」


「一言も答えられぬというのか」


「父上がもし、ふたたび投獄の憂き目に遭われれば、お身体はもはや耐えられませぬ。

 あらゆる不祥の兆しは、未然に摘み取らねばならぬのです」


 楊脩は父の前で膝をつき、深くこうべを垂れた。


 その後頭部を見下ろしたまま、楊彪は息をついた。

 こうなれば、息子は決して退かないだろう。

 これ以上詰問することはあきらめるべきだった。


 同時に、楊彪にもある種の予感が芽生えていた。

 息子は「ふたたび」と言った。

 十七年前、自分が最初に経験した投獄は、むろん曹操の意向によるものであった。

 現在までつづく足の疾患も、獄中で受けた尋問の後遺症が悪化したものである。


 「ふたたび」の投獄があるとすれば、それももちろん曹操の意向によるもの―――おそらくは、漢の朝廷に仕える高官同士で結託し曹操の命を狙う陰謀に与した、といった理由での投獄になるだろう。

 いや、実際には、獄中に据え置かれる段階すら経ることなく、速やかに処刑の場に送られる図のほうが現実的であった。

 いましがたの息子は、処刑ということばを口に出すことを忌避し、あえて投獄と称したに違いなかった。


 改めて、楊彪は息子の後頭部を上から見下ろした。

 あの投獄―――いまのところ唯一の投獄であるあの期間を経て、ついに無罪放免とされ妻子に再会を果たしたとき、息子はわずか八歳だった。

 妻(えん)氏と同じように息子も泣いて帰還を出迎えたが、父が左右から従者の介添えを受けなければ立って歩けないことを見て取ると、しゃくりあげるのを止め、その目が表情を失っていった。


 時間が静止したかのようなあのときの硬直を、楊彪は忘れることができない。






「―――おまえの、好きなようにせよ」


 楊彪はそう告げ、息子を立ち上がらせた。

 楊脩は拝礼してから立ち上がり、父に穏やかな笑顔を向けた。


 だがふと、思いつめたように表情を改めた。

 楊彪には、息子が久しぶりに()の顔を見せたように思われた。


「父上に向かってこのような物言いは不遜ではございますが、―――この先何があっても、忍従ということをお忘れにならないでください。

 忍従の先にこそ、大いなる成就がございます。

 わたくしも、それを忘れません」


 忍従、と楊彪は口の中でつぶやいた。

 ふたたび息子をみやると、その顔にはまた、起伏のないいつもの微笑が戻っていた。


 楊彪は息子に支えられながら書房の入口まで戻ると従者を呼び、堂へ戻るための介添えを命じた。

 息子ひとりを書房に残し、そのあとの処置はすべて任せることにした。


(あれが本心から笑うのは、近年いよいよ稀になった)


 廊下をゆっくり進みながら、楊彪は息子の幼年時代を―――たぐいまれな聡明さの片鱗を既に見せていたとはいえ、なお子どもらしい子どもだったあの時代を思い起こしていた。


 楊脩は月が明けると父母にいとまごいをし、鄴へ戻っていった。






 同じ月、十一月の二十日に、今上帝の皇后伏氏は廃せられて暴室に下され、まもなく没した。

 罪状は、いまから十四年前の建安五年、皇后は存命だった父伏完に書簡を送り、曹操を誅殺せんと協力を求めた、というものであった。


 その契機は、伏完と同じく漢朝の重臣であり今上帝の信任篤かった董承(とうしょう)が曹操の暗殺を試みたものの計画が露見して殺され、さらにそのむすめ(とう)貴人―――皇后と同じく帝の側近くで長らく仕えてきた后妃のひとり―――さえもが、帝の子を腹に宿していたにもかかわらず、そして帝自身が曹操へ度重なる嘆願をおこなったにもかかわらず、父と同じく処刑されたことにあったとされる。


 その一部始終を目の当たりにした皇后は、


(曹操が生きている限り、もはや我々に安息のときは来ない)


と確信を得たのかもしれなかった。

 しかし伏完は結局皇后からの求めには応じず、彼が死去した後も書簡は秘匿された。

 それがなぜか近日になって、あるいは曹操が許都に配した諜報たちの活動の賜物でもあろうか、書簡の存在が唐突に暴かれたのだった。


 その報告はまず許都の丞相府に達せられ、鄴に派遣されている丞相府官僚の一部にも共有された。

 主簿として丞相府の万機に関わる立場にある楊脩はむろん、その報告に真っ先に接する立場であった。

 そして、「皇后、丞相の暗殺を図る」との急報は、合肥(がっぴ)から孟津(もうしん)へと向かう途上の曹操の元へ速やかに届けられた。

 皇后に対する措置はむろん、漢の朝廷で議題になるより先に、曹操の一存で決定され、事実上確定されたのであった。


 暴室は病気になった宮女を隔離したり罪を得た后妃を幽閉したりする部署であるが、常に治療や衣食が提供されるわけではない。

 多くはその環境に耐えきれず自身で死を選ぶ。

 伏皇后の幽死も自害であろうと内外で推測された。

 彼女の兄弟をはじめ一族百余人が処刑され、その生母らもはるか北方の涿(たく)郡の地に流された。


 それ以上に世人を震撼させたのは、伏皇后が生んだ男子ふたり―――すなわち今上帝との間に儲けた皇子ふたりが、酖毒(ちんどく)により自裁を迫られたことであった。

 皇后所生である以上、本来ならば、次の皇帝の地位を継いでもおかしくない皇子たちである。


 二十年もの間皇后の位にあって帝を支え、想像を絶する困難をともに生き抜いてきた貴婦人が、そしてそのふたりの間に生まれた皇子が、一切の減刑を許されず死に追いやられたことは、いまや魏公曹操こそが漢朝の命運を左右しうることを、天下にあまねく宣明するに十分であった。


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