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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十八)楊彪夫妻

「ただいま帰参いたしました。父上母上にご挨拶申し上げます」


 床に膝をついた楊脩は、恭しくこうべを垂れた。

 呼びかけられた彼の父母、楊彪(ようひょう)(えん)夫人は、待ちかねた思いをともに隠し切れぬように彼を立ち上がらせ、座を勧めた。


「変わりがないようで何よりだ。おまえもそこに座りなさい」


「まことに、前回の帰省より顔色も良いようです。

 いま、酒肴(しゅこう)がまいりますからね」


 楊脩の両親、とりわけ袁夫人は感じ入ったように子息の顔を見つめた。

 夫との年齢は離れているが、彼女にとっても楊彪にとっても、楊脩は唯一の男児である。


 鄴からここ許都に至るまでは、さほどの長旅を要するわけではなく難路というわけでもない。

 とはいえ、楊脩は許都に本拠を置く丞相府の官僚という身分でありながら、いま現在は魏国官庁と丞相府との連絡を密にするため鄴に置かれた部局に配置されているため、いつでも随意に鄴を離れて父母に会いに来るわけにもいかず、せいぜい数か月に一度の帰省となる。


「父上母上のお元気な尊顔を拝し、わたくしも安堵いたしました」


「おまえは以前は書物に没頭すると寝食も手付かずになったが、いまは適度に食べているようだな」


「おまえの妻はよくできたむすめですからね。この間も手ずから織った蔽膝(へいしつ)(ひざかけ)を贈ってくれました。

 ―――妻といえば」


 袁夫人は少しことばを切った。


「どうです。懐妊の兆しはありますか」


「いまは、まだ」


「急かすわけではないのですよ。おまえたちはまだ二人とも若いのですからね」


 袁夫人はそう付け加えたものの、母が案じていることの核心は楊脩にも察せられた。

 母もまた、自分が孫の顔を見たいがためにというより、どちらかといえば父のために少しでも早い孫の誕生を願っているのだ。


 楊脩は楊彪がかなり年配になってから夫妻の間に授かった初子である。

 父が存命のうちに孫の顔を、とりわけ男児の顔を見せられるかどうかは、楊脩自身も常に案じているところであった。






「丞相ご親征の軍が七月に出発した後、鄴は何事もなく平穏と聞いているが」


「はい。丞相府の官人の少なからぬ者たちが軍中に動員されておりますが、許都に残された者と鄴に派遣された者のみで業務をつつがなく遂行しております。

 いずれにせよ、鄴をめぐる内外の動きに不穏な兆しがありませんのは、臨菑(りんし)侯のご精励の賜物でございます」


 曹植が現在、鄴の最高責任者としてその守備に責任を負っていることは、楊彪ら許都にいる者たち―――漢朝に仕えている者たちや仕えていた者たち―――にもむろん知られていることであった。


 実際の現場の采配は老練な部将や文官たちが担っている以上、曹植の存在は飾りものという性格が強いにしても、これまでさしたる責任のある役職に就いたことがない二十三歳の青年が、彼ら熟練者に対し過剰な容喙(ようかい)をせず、また逆に無関心による放任もなく、適切な距離と熱意で任にあたり鄴内部の和を維持していることは、楊脩にはいささか驚きでもあり、また彼の資質を改めて高く評価する契機にもなった。


 反乱等が実際に起こってから鎮圧するような功業に比べて、守備という任務には華々しさが乏しいことは否めない。

 しかし、鄴の内外で変事が生じるのを未然に防ぐ、という状態を数か月間継続しているのは、誰にでもできるわけではない。

 この分であれば、丞相の遠征が仮に長期化したとしても、曹植は鄴の留守役を無事に務めあげられるのではないか。


(あのかたは、安定しているときには安定している)


 そういう意味でも、曹丕を始めとする丞相の諸子から交遊を求められた自分が、最終的に曹植を親交の相手として選んだのは正しい(・・・)判断であった。

 楊脩が曹植を選んだ理由はそれだけではないが、上に立つ者として均衡感覚を十分に具えているというのは、彼の思い描く構想の中では重要な美質であった。


 曹植があの若さで鄴の諸将・高官たちと過不足なく提携し留守居役を全うすれば、曹操は当然、ただでさえ寵愛している彼への評価をいよいよ高めるであろう。


「臨菑侯か」


 楊彪は短く言い、しばらく黙っていた。

 楊脩の知る限り、楊彪自身には曹植との接点は何もない。

 ゆえにその人品や才質を直接知る機会はないはずだが、鄴からここ許都へと流れてくる噂―――臨菑侯は文章の才では他者の追随を許さず、いまや丞相最愛の寵児であるという―――は楊彪の耳にも入っているだろう。


 そして、曹植と楊脩の間でこれまでしばしば交わされてきた詩賦の写しも、好事家の手によって広い範囲で読まれていることは疑いなかった。

 楊脩は自分から父母に対し、臨菑侯から特別な愛顧を受けていると話したことはないが、彼らがそれを知っているであろうことは承知していた。


 だが、少なくとも父は、丞相諸子の中の特定のひとり、もっと言えば諸子のなかでも別格のひとりと息子が交際を深めることに、必ずしも良い感情を抱いていない―――むしろ懸念していることも楊脩は了解していた。


 その懸念の理由もおおむね察してはいる。

 ゆえに楊脩は、あえて自分から臨菑侯との厚誼を父母に強調して伝えることはしてこなかった。

 だが、父母の懸念をいずれ払拭できることを彼は信じていた。

 というより、自分の目的の達成によって、父母の懸念は必ず払拭されるはずであった。


 その実現のためならば、当面は父母にさえ自分の近況の一部を伏せることになったとしても、やむを得ないことであった。

 ましてや、まだ生まれてもいない楊脩の息子に自らの愛女(まなむすめ)を嫁がせたいというほどの友情を曹植から示されたなどという話は、少なくとも今の段階で伝えるべきではない。


(いつか、分かっていただけるだろう)


 しかしそのためには、少なくとも高齢の父が存命のうちに、目的を成し遂げなければならない。

 それは単に楊彪の寿命が長からんことをと願うだけでは無理であり、丞相曹操が―――曹植の父が楊彪よりも先に没しなければ、そしてむろん、曹植を後継者に指名した上で没しなければ、成し得ないことであった。


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