(二十七)断念
曹植は一瞬目を見開き、初めて黙り込んだ。
赤子の産毛を所在なさそうに撫でている。
そして、渋々といったようすで答えた。
「わかった。どの家と結ぶにしても、正式な婚約に着手するのは、せめて金瓠が笄を挿してからにする」
「それがよろしいかと存じます」
わたし自身は笄を挿してから子建さまに出会ってしまったけれど、と崔氏は思ったが、それ以上は口にしても詮無いことであった。
女子が笄を挿すといえば、ふつう十五の年をいう。
笄年とは女子が婚約するのに適した年齢であると経書でも定められている―――ただし、笄年が何歳を指すかはときに解釈が分かれる―――が、婚約すればじきに嫁がせなければならなくなる。
(たった十五、六でこの子を手放すなんて)
と思ってしまうのは、崔氏も同じであった。
むすめの身体を嬰児用の牀の上に運んでやりながら、
(この子がいずれ笄を挿すとしたら―――髪の毛を豊かに伸ばしたら、どんな感じだろう)
と崔氏は思った。
さらさらと滑り落ちるように何度もくしけずってあげたい、香油を丁寧に塗りこめてあげたい、望むだけの花々や宝玉で飾ってあげたい、と思う。
できることは何でもしてやりたくなるのが親の心というものなのだと、自分が母親になってみてようやくわかった。
それだけに、物質的に与えようと思えばいくらでも与えられる立場にいながら節度をもって愛することの難しさを改めて知るようになった。
曹植が身の回りに簡素なものを好むのは生来の志向であり、本人はあまり意識していないようにみえるが、彼の父母、曹操と卞夫人はかなり意識的に倹約を心がけていることで知られている。
上つ方の人間が奢侈に親しみそれを当然のことと見なせば、下からの収奪が必然的に苛酷になる。
天下がなお分裂抗争し各地でおびただしい民衆が流浪しているという現実を思えば、奢侈を極力控えて我が子を育てるという方針は疑いようもなく正しいものであり、子婦である自分もそれを規範として仰がなければならないと―――努めてそれを意識しながら育てなければならないと思う。
(金瓠の珥はやはり、わたしのお下がりから始めなければいけないかしら)
そう思うとずいぶん心残りであったが、奢侈への抵抗感は常に持たねばならないのだ、と自分に言い聞かせた。
ありがたいことに、この子の父である曹植のほうは、妻女のための出費に吝嗇ではない一方、妻女をどうしても着飾らせておきたいという男ではない。
そういうところも曹操から愛される所以であるといえるだろう。
「義父上さまは、―――」
崔氏はふと口をひらいた。隣に来て金瓠を見下ろしている曹植が目を上げた。
「どうした」
「義父上さまは」
以前から気になっていたことだったが、なぜか今、どうしても訊いてみたいと思った。
「もともとは、子建さまにどちらの家のご令嬢を娶わせたいと―――どちらの家とのご婚約をお考えだったのでしょうか。
以前うかがったお話では、子建さまは清河においでになる前から、幾人かの候補は勧められていらっしゃったということでしたが」
「ああ」
その話か、と曹植は記憶を掘り起こすように視線を宙に浮かせて言った。
声の調子からすると、その時期の縁談にはさして思い入れがないらしかった。
「夏侯家と丁家だったはずだ。
父上は、とくにどのむすめを俺に娶らせたかったというより、それらの家の者ならば安心だというお気持ちだったのだと思うが。
我が家にとっては、いずれも累代の姻戚だからな」
崔氏はうなずいた。
曹家の人間が夏侯家と丁家というときは、ほぼ例外なく、同郷たる沛国の夏侯氏と丁氏を指す。
いずれも、曹操より上の代から曹家と姻戚づきあいのある氏族であり、単なる姻族というより半ば親族といってもよい。
「両家には俺と同年輩の女子は何人もいるが、―――昔から行き来をしてよく見知った仲だからな。
ほとんど女きょうだいのようなものだ」
「そうなのですか」
崔氏は安堵をおぼえるとともに、このかたらしい、とも思った。
彼女たちに対しては近親者としての情のほうがまさり、妻にしたいという感情が湧きにくかったということなのだろう。
「そういえば、候補のなかには荀家の女子もいた気がする」
「まあ、潁川荀氏の」
世人の輿望を担う清流の大官を輩出しつづけたという点では楊脩の出自たる弘農楊氏にも遜色ない、かの潁川荀氏の名を口にするとき、崔氏はいつも背筋を正されるような思いがする。
しかし曹植にとってその家は、父が最も信頼してきた僚属たる亡き荀彧そして荀攸の出自であるとともに、すでに曹家の姻戚になっている一族でもあった。
曹操はむすめのひとりを、つまり曹植の姉妹を、荀彧の長子荀惲に嫁がせている。
「長倩の姉妹を娶ることで長倩と二重に義兄弟になれるのなら、それも悪くないとは思ったが」
荀惲を字で呼んだ曹植は、それが実現していたらまんざらでもないと思ったのか、自然と笑顔になった。
彼は荀惲とは単に姻族であるだけでなく、個人的にも気が合う友人同士なのである。
(―――どうして、そうなさらなかったのですか)
崔氏は口に出してそう尋ねてみたい気がしたが、すんでのところで自制した。
曹植にとっては荀家の女子が物足りなかったというより、そのころはどうしても婚約に踏み切れない心の枷が根を下ろしていたのだ。
そのことを改めて彼の口から聞きたくはなかったし、彼もあえて話したくはないだろうと思った。
(―――でも、わたしのことは、選んでくださった)
つい、抑えていた思いが頭をもたげた。
崔氏は目を深く伏せ、自らを戒めた。
荀家や夏侯家や丁家の令嬢たちに比べて、自分が特別に優れているわけでは決してない。
虚栄心につながる考えは遠ざけなければならない。
それでも、胸の底には小さな火が灯っていた。
曹植が甄夫人に対して抱きつづけてきたような狂おしい恋慕の情は、彼がこれまで自分に向けてくれた愛情とは異質のものであることは分かっている。
それでも彼は、清河で過ごした日々を通じて、このむすめとなら家庭をもつのも悪くない―――もってみたい、と思ってくれたのだ。
それは、もっと前から彼の身近にいた、ほかのむすめたちには抱かなかった感情だった。
その事実だけで十分ではないか、と崔氏は思った。思おうとした。
「今日は、客人の前でもなかなかいい子にしていたな。最初のうちは」
しばらく黙り込んだままの妻の意識を引き寄せるように、曹植が口をひらいた。
その視線はふたたび金瓠の寝顔の上に注がれていた。
我に返った崔氏は、ええ、とうなずいた。
金瓠は楊脩の前でも結局はぐずりだしてしまったが、その前のひとときは、彼の目からみても穏やかで人懐こい赤子にみえたのではないか。
「主簿さまも始終、この子にお優しい目を向けてくださいました」
「徳祖どののところで次に生まれる子が、もし女児だったら」
「―――ええ」
と崔氏はやや不安になりながらつづけた。
楊脩のことを持ち出した以上、話の先行きは何となく見えているが、夫は次に何を言い出そうというのか。
「そのころにはうちも男児がいると、都合がいいわけだが」
「……子建さま……」
祖先の祀りを絶やさぬためにいずれは必ず男児がほしいというのは人情の理だが、親友の女児と縁組させたいがために男児をほしいという人間もなかなかいない。
崔氏はいまだ燻っている夫の執念のたくましさになかば呆れながら、
「男児であればなおいっそう、早まった婚約は控えるべきではございませんか」
「そういうものか」
「そういうものです。女児と違い、邸の外を自由に出歩けるのですから。
出かけた先で家臣一行をけむに巻き、単騎で出奔することも簡単にできてしまいます」
「そしてその先で出会ったむすめと、容易に道をあやまつか。それはそうだ」
曹植は楽しそうに笑った。そして笑いを収めてから、
「ならば、急ぐのはやめる。あやまつ余地を残しておいてやろう」
と言った。妙にさっぱりとした面持ちだった。
崔氏は嘆息し、こういうときの癖でまぶたを軽く押さえた。
息子の性質がこのかたに似てしまったら母として日々心労が絶えないだろうと予感しながらも、
(―――子建さまに似た男児を、早く授かりますように)
と、これまで何度も思ったことを、心にまた思った。