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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十六)あやまち

 その後、崔氏が楊脩に挨拶をして(へや)から下がり、乳母や金瓠(きんこ)がいる(ねや)へと移っていった後、曹植は楊脩としばらく酒卓を囲んだようであった。


 ささやかな宴が終わり、邸の門まで友人を見送って戻ってきたあとの彼は、珍しいことにいくらか悄然(しょうぜん)としていた。


 まさか口論などして喧嘩別れなさったわけではあるまい、と思いつつも、崔氏は夫に問い尋ねた。


「お話は弾まれましたか」


「ああ」


「どことなく、お元気がないようですが」


「徳祖どのが許都に行ってしまう」


「まあ、―――つまり、丞相府にある本来の執務室に戻られる―――あるいはもしや、丞相府をお辞めになり、ふたたび天子のお側近くにお仕えになられる、ということでございますか」


「違う違う!」


 曹植は慌てて打ち消した。

 それが現実になることを心底案じているかのようでもあった。


「そんなことになったら、俺の落ち込みはこんなものではすまない。

 今回許都に行くというのは、しばし休暇をとって、ご両親にお会いするためとのことだ。

 これまでも定期的に行っておられた。

 つまり、―――とくに父君のお身体が万全ではないからだと思うが」


 曹植の声が少しくぐもったように聞こえた。

 その心境は崔氏にも分かった。

 楊脩の父楊彪が健康を害しているとすれば、それはおそらく、単に高齢だからというよりも、曹操によって投獄されていた期間に受けた苛酷な尋問による後遺症が大きいのだ。


 それは今から二十年近く前のことであり、むろん曹植はその事件には一切関与していないが、自分の父親の意向で親友の父親がいわれなき迫害を受け、いまもその傷痕に苦しんでいるという事実には、胸が痛いということばでは済まされない、直視しがたいものがあるのは当然であった。


 少しの間を置いてから、崔氏は何気なく尋ねた。


「それでは、許都への行き帰りでしたら、数日でお戻りでしょうか」


「今回は少し日数を要するかもしれぬと言っていた。

 徳祖どのとは、数日でも離れがたいというのに」


 そのことばは誇張ではなく、曹植はいよいよ意気消沈したような顔になってきた。

 いまは父母兄弟など親しい肉親の大半が鄴にいないことに加えて、心を許した親友ともしばらくは毎日会えなくなるという事実に打ちひしがれているのであろう。


 夫の気持ちがこれ以上沈み込まないように、崔氏は話題の方向性を転じようとした。


「ですが、ご両親さまのもとでゆっくりお過ごしになれるのはよいことですね。

 許都のご実家では、きっと待ちかねておられることでしょう」


「まあな、徳祖どのはご両親にとって唯一の男児でもある。

 それに、軍務関連の官僚が鄴から出払っている今は、丞相府の業務も普段よりは減っているからな。

 休暇をとれるのはよいことだ」


 少し持ち直したような顔をして曹植は言った。

 そして、妻の腕の中でおとなしくしているむすめの顔を見下ろすと、


「よかったな。徳祖どのの子息といえば、世にまたとない貴公子に育つのはまちがいない。

 そういう青年におまえを託せれば、俺も安心だ」


と冗談とも本気ともつかない口調で言った。


「子建さま」


「何だ、不服か」


「子建さまと主簿さまの間でまことにお話がまとまりましたら―――そして両家の家長さまのお許しが出ましたら、わたくしがどうこう申すことではございません。

 ですが、かように重大なお話を、前もっての言及もなく、いきなり持ち出されるものではありません。

 主簿さまも、―――心の内ではお喜びだったとは思いますが、いくらか困惑しておられました」


「たしかに、それは反省している。

 もっと早くから打診をしておけばよかった。

 なぜ今まで思い至らなかったのかと、自分をいぶかしんだくらいだ」


 なかば感じ入ったような口調でうなずきながら、曹植は自分の考えの妥当さをまったく疑っていないようであった。


 そのようすを見ながら、崔氏は、やはり言いづらいことを言わなければならないかと思った。


「―――たら、どうなさいますか」


「え?」


「嫁ぐより前に、この子に好きなひとができたら、どうなさいますか」


 曹植は一瞬虚を突かれた顔になったが、すぐに一笑した。


「まさか、俺のむすめに限ってそんなことが―――そんなことが―――そんな」


 言いかけて、表情はしだいに真顔に変わっていった。


「―――ありそうな気がしてきた。俺の子だからな」


 わたしの子でもあるからこそ、と崔氏は思ったが、言わなかった。


 それと同時に、「俺の子だから」とはどちらの意味なのか―――父母の(めい)によらずに偶然出会ったむすめを見初めて妻にと望んだ己の子だから、という意味なのか、それとも、愛してはならない婦人を愛してしまった己の子だから、という意味なのか―――どちらなのか知りたい、と一瞬焦がれるように思ったが、いまそれを突き止めてもどうしようもないことであった。


 ここで問題にしなければならないのは金瓠のことだ。彼女の将来のことだ。


 曹植はそんな妻の胸中に思いも至らぬように、ひとり悩まし気な表情を浮かべていた。


「どうしたらいい。心を鬼にして厳格に育てるべきだろうか。

 とはいえ、俺はこの先も、金瓠をひたすら甘やかしそうな気がする。

 そなたが厳しく躾けてくれることだけが頼りだ」


「―――わたくしも、実家では比較的厳しい躾けを受けて育ってまいりました」


「知っている。だからこそだ」


「それでも、どのように育っても、あやまつときはあやまつのです」


 崔氏の目元はほのかに赤くなっていた。

 数年前のあの仲春の日に我が身を襲った恐れや不安や羞恥、そして形容しがたい喜びを、予期せぬほど唐突に胸の深いところで感じていた。


 ああ、と曹植は腑に落ちた顔になった。そしててらいなく真顔で言った。


「だが、あやまちとは言い過ぎではないか。

 そなたと結ばれたことは、俺には大正解だった」


 このかたは、こういうことを率直におっしゃりすぎる、と崔氏は頬まで赤く染めながら思った。

 だがその分いつも、こちらの心も明け渡さねばならぬような気持ちにさせられるのだった。


「―――わたくしも、そう思っております」


 耳朶(じだ)まで赤くなった崔氏は、うつむきがちに小さな声で言った。


 曹植のいう「正解」の意味が、彼と自分では微妙に異なることは分かっていた。


 彼はもちろん妻としての自分を愛してくれており、婚礼の日から今に至るまで大切にしてくれていると思うが―――もっといえば、清河で出会ったときから、激しい恋情の代わりに穏やかな好意を寄せてくれていたと思うが―――自分たちの結婚のことは、より包括的な意味で「正解」と評しているにちがいなかった。


 つまり、彼からみて姻戚となった清河崔氏の族人たちは、いまやその代表格たる崔琰(さいえん)崔林(さいりん)らの姿勢に倣って節度を保ち、丞相の寵児たる曹植に過度な近づきを願う者はいない。

 魏国の上層部に参画する崔琰と崔林らも、曹操と直接の接点をもちうる立場でありながら、曹植に過剰に肩入れして曹操の前で彼の美質を称揚することもない。


 それこそが、曹植が自分の姻戚になる者たちに元から期待していた態度であった。

 崔氏自身もそれを知っている。

 彼のいう「正解」の意味はそこにあることを知っている。


 それでも、と崔氏は思った。

 それでも、自分にとって曹植との結婚が正解であること―――たとえ礼法に背いてでも結ばれたいと願った相手と結ばれたこと、その意味は揺らがなかった。

 それゆえに、夫にはいま言わなければならないとも思った。


「わたくしも、あやまちではあったけれど正しかったと、そう思っております。

 ―――だからこそ、この子に選択肢を残しておいてあげては、と思うのです」


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