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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十五)共鳴

 このかたは、いまの問答については片鱗も子建さまに悟らせるおつもりがないのだ、と崔氏は思った。


 そしてむろん楊脩は、このあと自身が臨菑(りんし)侯邸を去った後も、臨菑侯夫人がいましがたの問答を臨菑侯に伝えるはずはないということを―――長兄を素朴に敬愛する夫の心を波立たせ苦しめるような話をわざわざ聞かせるはずはないということを、着実に予見しているわけであった。






「徳祖どの、お待たせした」


 曹植は着座するなり友人に詫びた。


「出征軍からの使者を名乗る者はたしかにこの邸に来ていたらしいが―――俺が門に至ったときにはいなくなっていた。

 取次をした侍女や馬の介添えをした馬丁らも困惑していたが、何とか見つけ出せないかと捜索させていたら、ずいぶん時間が経ってしまった。


 馬が綱を解かれて(うまや)からいなくなっているということは、騎乗してきた者だけがこの邸に残って潜んでいるということはないと思うが、あれは何だったのか。

 念のため、警備を厚くしておくつもりだが」


「不可思議なことですな」


 変わらぬ穏やかな口調で楊脩は同意を示した。

 彼らふたりと帳を隔てながら、崔氏はただ黙っていた。


 つづけて楊脩と話をしているうちに、曹植はこの件をいぶかしむ気持ちが薄れてきたのであろう、ふと妻のほうに顔を向け、いつもの彼らしい陽気な調子で言った。


「夫人よ、徳祖どのはまさに君子というべき御仁だろう。

 礼法に厳しいそなたから見ても非の打ちどころがないに違いない」


「―――ええ、誠に」


「そなたの叔父上が婿に迎えたかったのは、俺のような男ではなく、むしろ徳祖どののような士であろうよ」


 曹植はそう言って屈託なく笑った。

 楊脩は微笑を崩さぬまま謙虚に目礼し、帳の奥にいる崔氏もそっと目を伏せた。






「そうだ、いまついでに隣の(ねや)から持ってきたのだが、これを見ていただきたい。夫人が自分で織ったのだ。見事なものだろう」


 そう言って曹植が取り出したのは崔氏が婚礼に際し持参してきた絹布だったので、彼女は慌てて止めようとした。

 いくら新婚といえなくもない若夫婦の家を訪ねてきたとはいえ、これから配偶者の自慢話が始まると知って、やれやれと思わない客はいないだろう。


 だが楊脩はそんなそぶりは片鱗も見せず、年下の友人の無邪気なひけらかしを冷やかすでも追従するでもなく、誇張のない誠実な関心を示しながら耳を傾けている。


「これは―――(かとりぎぬ)でございましょうか。

 ご夫人のご郷里清河(せいが)の特産と伺っております。

 なるほど、ここまで密な織り目はなかなか珍しいようだ。さぞ長持ちすることでしょう」


 二本の生糸をよりあわせて織られた絹を縑と呼ぶ。

 織り上げるには相応の手間と技術を要するが、それだけに極めて丈夫なことで知られている。

 曹植はまるで自身がほめられたかのように、大きな笑みを浮かべてうなずいた。


「ああ。糸紡ぎから染色まで、一通り自分でできるのだそうだ」


(子建さま)


 崔氏は帳越しに表情で何とか夫を黙らせようと試みるが、意図を気づいてもらえそうになかった。

 縑の製法に一通り通じているというのは、別に彼女が衆に抜きん出て器用だからというわけではなく、単に清河の崔氏宗家には各工程専属の使用人を置く余裕がないので、一族の婦人は多かれ少なかれ紡織の全工程に携わらなければならない、という家政の事情の副産物に過ぎない。


 ゆえに崔氏当人にしてみればそうそう他人に吹聴してほしい事実でもないのだが、曹植はひたすら淀みなく、妻の美点を親友に共感してもらうのが我が務めだと言わんばかりに語りつづけている。


(本当に、困ったかただわ)


 いたたまれずに目を伏せる崔氏自身、曹植のもとに嫁いでからこのかた、楊脩や曹丕といった夫の親しい友人たち、肉親たちについて同じような賞賛の話を、日に数回は聞かされているような気がする。


 曹植が友人や肉親について語る際に浮かべるあどけないまでの喜色は、清河の邸で世話をしていたころから彼女もすでに馴染んではいたが、いまや崔氏自身が家族の一員となり、人生の大半を彼とともにする立場となったことで、曹植は己の愛するひとびとのことをいよいよ熱心に語り聞かせるようになったのだともいえる。


 おそらくは甄夫人についても、彼女が長兄の妻でさえなければ、そして聞かせる相手が自分の妻でさえなければ、どれほどすばらしい夢のような婦人であるかを三日ぐらいかけて語りつづけなさるに違いない、と崔氏はふと思った。


 だが、たとえそう思い至っても、いまこうして夫が親友と向かい合うかたわらに座していると、ふしぎと重苦しい気分にはならなかった。


(子建さまは、ひとを好きになることがお好きなのだ)


 妻の働き者ぶりについて飽きもせず語りつづける曹植に対し依然として気恥ずかしさをおぼえながらも、崔氏は胸の内がゆっくりと温かくなってゆくのを感じていた。

 もしも叔父崔琰がこの場に居合わせたならば、


「御身ひとりがご承知であればよい内室の仔細についてご友人にまで公言なさるとは、なんと節度のないことか」


と遺憾げに眉をひそめるにちがいないことは分かっていたが、それでもその温かさが消えることはなかった。


 ふたたび楊脩と目が合った。

 今の彼のまなざしからは、つい先刻のような無言の威圧はきれいに消え去っていた。

 それよりもむしろ、


(このかたのお側にいると、わたくしもあなたと同じ気持ちになるのです)


 あたかも彼ならではの物柔らかな口調がまなざしに置き換えられ、そう語っているかのようであった。

 崔氏もいましがたの緊迫感を忘れ、心が自然とやわらぎゆくのを感じた。


 わたしたちはやはり、子建さまに手を焼かせられながらも惹かれずにはいられない者同士、理解しあえる存在なのだ。


 絡まりあった生糸が音もなく解きほぐれるように、そう思った。

 だが、薫風を思わせる楊脩の微笑のその奥にあるものを見いだしたとき、彼女は思わずまなざしを伏せた。


 わたしたちはともにこのかたを愛している。

 ならば、このかたの御為(おんため)に一切の後難を排除せんと努めることは、天も(よみ)する美挙ではございませんか。


 夫の親友の目は静かに、だが揺るぎない確信を込めて、そう語りかけるかのようであった。


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